「大人」という単語について
「大人」という単語はどうしてネガティヴな扱いを受けるんだろう? 本来「大人」ってそういうモノなのか? 違うと思う。
大人だったら自分の中のフラストレイションを無関係なところに「正義ヅラ」してぶつけるな。フラストレイション自体が溜まっちまうこと自体を責めても仕方ない。ネタは十分過ぎだし日々とことん疲れてるんだから。でも、そいつをどう扱うか? それこそが大人かどうかの分かれ道なんだよ。
ことあるごとに湧き上がる「ムカつくココロ」には理由がある。その根本に迫れ。決して無関Kなところにぶつけるな。それが大人だ。ぶつけやすい相手にぶつけてスッキリしつつ屁理屈をこねて正当化するのはガキのやることだ。例え根本があまりに巨大で強大でどーすることもできないものだとしても。まあそりゃあ無力感に陥るだろう。でも、だ。どうすればいい? どんな状況が理想だ? 少しでもなんとかできないか? それらを探るのが大人ってもんだろ。
毎回「同じことの繰り返し」に見える。やらなければならないことに消耗し、やりたいことまでエネルギーが回らず日々フラストレイションを溜め込み「次こそは!」→ハイまた次の日… でもな! 同じ日なんか来ないんだよ! 思秋期の俺は日々確実に衰える。今できないことがこの先更にできなくなるのは確実だ。「繰り返し」なんかじゃない。悪化のスパイラルなんだ。これは絶対だ。そう 世の中に「絶対」はあるのだ。さあどうする! これでいいのか! いいわけ無いだろ!
肩に力を入れたくない。そんなものは長続きしないし悲壮感漂えば失敗が約束されたようなもんだ。テキトーにやる。まじめにふまじめで行く。
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