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日々魂に刻み込め!

 仏教にも転生はあります。ユダヤ教神秘主義のカバラにもあって、そこではギルグルと呼ばれています。転生はいたるところに存在している。あらゆる時代において周知の事実だったのです。 ミヒャエル・エンデ『闇の考古学』

 人生は本当に一度きりなのか? むしろ一度きりの方が救いがあるのではないか? どんな凶悪犯罪をしでかしても、人生が一度きりなら死ねば全てチャラにできる。そんな都合のいい話があるだろうか?

 人は必ず死ぬ。何をやってもどんなにお金を稼いでも、やがて全ては無に帰す。一見とても虚しい。しかし、人生が一度きりでないとしたら? 生きる目的が魂を磨くことにあるとしたら? すべての経験は無駄ではない。従ってちっとも虚しくなんかないことになる。いや、少しでもがんばって魂にいいものを刻む必要性が生じる。

 才能のある人は確かにいる。ついつい嫉妬する。しかしもし輪廻転生があるなら、才能にも説明がつく。才能とは、何代にも渡って努力を重ねて来た結果獲得した力なのではないだろうか? だとすれば嫉妬するなんて実にアホらしい。

 もちろん、知識や経験そのままに転生することは不可能だ。知識や経験は時として前進の妨げになることもある。だから死によってきれいさっぱり捨て去る。一方で魂はきっと残る。人生とは魂を鍛えるためにあると思う。

 「子供は親を選んで生まれてくる」と語る人達がいる。しかし、そうでないことは現実社会が語っている。もしそれが正しければ毒親は存在しない。親になんかなれないのだから。紛争地帯を選んで生まれたく思う人がいるだろうか? いるわけが無い。

 おそらく人は生まれたくて生まれたくて仕方がないんだ。だから親を選ぶ余裕も生まれる環境を選ぶ余裕も無いのだ。根拠がまるで無いわけでもない。何億という精子の中のたった一つだけが卵に到達できる。想像を絶する生存競争だ。これは「生まれたい!」という情念そのものではないだろうか?

 さて、そうやって生まれて来た人は、なぜかその情念をすっかり忘れてしまう。時には「生んでくれなんて頼んでねえよ!」などと毒づいたりさえする。なぜなんだろう?まるで想像がつかない。

それはさておき…

 どんな世界にも道を極めようと日々努力を重ねる人がいる。そんな人達には不思議な共通点がある。具体的に説明できないが、何かシンプルな真理にたどり着こうとしている様に感じる。これはつまりあれだ、永平寺の宮崎禅師が「全てが禅なんだ 例えば日頃の掃除さえも」的なことを言っていたが、これなんだと思う。悟りは1つ。だが、そこに至る道は人の数だけあるのだと。

 人生とは、意識するしないに関わらず既に大丈夫っ教なんだ。そのことを意識して日々できることを重ねるのがより効果的ということなのだと思う。

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