平和と民主主義を軸とした連携
8月9日の noter の皆様の記事を読んで、僕も書いておこうと思いました。
平和であれば
→ 生活が脅かされない
→ 楽しく健康に暮らせる平和であれば
→ 貿易や生産や表現ができる民主主義であれば
→ 自分たちの意思をもとに生活できる
一方、争いが絶えない国は、
主張が強い
欲深い
負けず嫌い
の傾向があり、
また、これらの性格を持つ特定の勢力によって支配されているケースが多いと思います。
平和な性格の人が普通に暮らしていれば、争いなど起きるわけはないですし、争いというのは、あえて何かを主張したり、均衡を崩すようなことを仕掛けるから起きるのです。
希望は誰にでもあり利害は食い違うこともある
100人いれば100個以上の希望があると思います。
それらの利害が全く絡み合うことがないなんてことは、現実にはあり得ません。
みんな、利害が異なることをうまく調整しながら社会に生きているのです。
良い時は誰でも平和
毎日、ちゃんとご飯が食べれて、好きなことができて、街は安全で・・
そんな良い時には誰もそれをあえて壊そうとは思わないでしょう。
問題は、ご飯が食べられない、好きなことができない、街が危なくてしょうがない、という状況になった時でも、冷静に問題解決できるか?ということなのです。
人によっては、楽しそうにしている人々が恨めしくてそれらが持っているものを破壊しようとしますし、
内に向かう人は自分を破壊しようとします。
過酷な世の中を前にして
環境問題、食糧問題など、過酷な状況になる可能性が高い未来が待っているという状況を、どのように捉えるでしょうか。
それらは全人類に課された課題です。
どのように解決して、あるいは妥協して、生きて行くかをみんなが考え、実現しない限り、予想されたネガティブな状況、あるいはもっと過酷な状況になってしまうでしょう。
誰も争いたくないのに、
争わなければならないという状況。
それは不幸にも訪れるわけですが、それでもなんとか争わずに済む方法を考えるべきです。
僕らは争うために生まれてきたのではなくて、生きるために生まれてきたのですから。
まして、自分から好んで争いを仕掛けるなんて、もってのほか。
そんなことをしても、自分だけラッキーできるような世の中ではないのです。
調和を乱す人 → 違和感 → リジェクト
これが人間社会の特性である以上、調和を乱した上の繁栄などあり得ないのです。
連携
アメリカは、一時は自国に閉じこもる政策に転じていましたが、
基本的に閉じこもる方向性に明るい未来はないはずで、
最近では、太平洋諸国やイギリスなどと連携する方向に動いているように感じます。
元気で力が強い人は、誰にも頼らなくても生きていけますが、そんな人でも病気になればそうはいきません。
また、自分より元気で力が強い人が現れたら、一人では対抗できなくなります。
結局のところ、平和や、自由主義といった共通の価値観を持った人同士で手を取り合って、その価値観が通用する世界を構築するのが最善の策なのですね。
戦いによって傷を負った恨みを晴らすだけなら、また戦いを仕掛ければよいわけですが、それでは永遠に応酬の連鎖になるだけです。
それより、なぜ戦わなければならないのか、戦わずに済む方法はないのか、そういうことを真剣に考える必要があります。
どんな立場の人でも。お互いに。
平和であり続けるためのアイデアをゼロベースで考えることが、平和を維持する唯一の方法だと思うのです。
最終的に僕らはどうなりたいか?
ということを、おそらく徳川家康も、各地の有力者も考えていたことでしょう。
今の時代は、それを僕らが考えないといけないのです。民主主義だから。