良し悪しでなく好き嫌いで決める
良し悪し
ものの良し悪しは、どちらかというと客観的な評価で、言葉で定義できたり、数値で表せたりして、誰が見ても納得し得るものです。
ですから、自分自身のことを差し置いても決められるし、自分自身の本音は別にある(妥協する)こともあります。例えば・・
品質が良い(悪い)
評価が良い(悪い)
法的・道徳的に可である(不可である)
などです。皆と共有しているもの、共有できるものに対して、その是非を問うものです。
好き嫌い
好き嫌いは、自分の主観的な評価で、妥協はありません。誰がなんと言おうと、自分の中では何か意識の変化でもない限り、変わりようのない原則です。例えば・・
デザインが好き(嫌い)
機能がありがたい(要らない)
サービスが嬉しい(余計だ)
考え方が好き(嫌い)
人間性が好き(嫌い)
理念・ポリシーが支持できる(できない)
居心地が良い(悪い)← 好き(嫌い)
などです。
ここで「居心地が良い」というのは、自分にとって良いことなので、好きと同じです。感覚的なものを「良い」と言うことがよくありますが、それは「好き」という意味だと考えて良いと思います。
他人からの推しへの対処
他人が勧めてきたものを受け入れるとき
良いから → そうしましょう
好きと思えたから → そうしましょう
良し悪しで判断しても、好き嫌いで判断しても、受け入れるなら相手も喜ぶし、お互いにハッピーですね。
他人が勧めてきたものを断るとき
それは悪いことだから → ごめんなさい
それは嫌いだから → ごめんなさい
悪い(良くない)と言って断ると、相手は否定されたような気持ちになります。なぜこれが悪いことなのだろうと納得できないかもしれません。
嫌いと言って断ると、相手は一瞬嫌な感じはしますが、否定はされてない、この人が好きではないようだ、と貴方の好みのせいにして納得できます。
実際には、悪いと言われても、ああ、この人は嫌いなんだなと察してくれるケースもあるかもしれませんが、それは必ずしも期待できないことです。
主観の問題に持ち込んで衝突を避ける
物事が、お互いにとってOKの場合は何も問題がありません。ハッピーエンドです。
けれども、貴方にとって不都合なとき、その表現は考える必要があると思います。
良し悪しという客観的な問題にしてしまうと、影響を受ける人が複数になって難易度が上がります。
至る所で「あれは果たして良いのか?悪いのか?」「私は良いと思うのだが」「私は悪いと思う。なぜならば・・」のような議論が発生して厄介なことになりがちです。
好き嫌いという主観的な問題にしてしまえば、それは自分だけのことに終始できるので少なくとも第三者には迷惑をかけずに済みます。
嫌いと言われた本人だけは、多少わだかまりが残るかもしれないし、もしその人が貴方に好意を持っている場合は、傷つくかもしれません。それは注意する必要があります。
なので、誰か人を紹介してきた時には「嫌い」とあからさまに表現せず、自分が乗り気でない旨をうまく伝えるようにするべきでしょう。
人間関係は難しいですね。
いろんな場面で使える「好き嫌い」
立場的に客観的な発言が求められる人(公人など)は大変ですよね。迂闊なことは言えません。
そうでなければ、いろんな場面で「好き嫌い」を有効に利用できます。
例えばnoteで記事を書くときも、自分の好みについて語っていけば、いくらでも文章が書けます。好きなように語れば良いわけですから。
読む人も「この人はこんなものが好きなのか!」と思って楽しんでくれます。
客観的な記事を書こうとすると、悩むし、調べるし、いつまでも記事は仕上がらないかもしれません。みんなは同意してくれるだろうか、心配になります。
僕も、いつもは主観丸出しで記事を書いていますが、今回のような記事は、一応、客観的な視点から書いています。だからとても注意して書いているのです。