社会なんてないのかもしれない
子どもの頃、「抽象的」という言葉が理解できなかった。そのまま「抽象的」という言葉をシャワーのように浴び続け、ああ、そういうことか、と理解した。この理解とは感得したものであって、一般に理解されている意味と照らし合わせたことはない。つまり、現在に至るまで正しいと思ってきた私の理解は、正しくないのかもしれない。
私は「社会」という言葉にも疑問を抱きつづけてきた。そして最近、一冊の本に出会った。『翻訳語成立事情』(柳父章著、岩波新書、1982年)。やはりそうだったのか。「社会」は翻訳語であり、造語だった。
本書は、幕末から明治にかけて西欧の外来語がおしよせた時代に、日本の知識人はどのように苦闘し、翻訳してきたのか、代表的な言葉として10例を挙げている。「社会」「個人」「近代」「美」「恋愛」「存在」「自然」「権利」「自由」「彼、彼女」。一例目が「社会」である。
いずれにも言えることは、「この外来語の翻訳は、この言葉に決定しました」と、小渕官房長官が「平成」を掲げ、菅官房長官が「令和」を掲げたように定められ、導入されたのではなく、さまざまな翻訳が試され、やがて収斂し、成立したのである。
私は今も、「社会」を言葉で説明せよと言われれば心もとない。私にとっての社会とは、例えばこうである。
スーパーに行く。手にアルコールをスプレーして揉む。籠を持って一定の速度で歩く。すれ違う人の顔をじろじろ見ない。でも、視野に知人がいないか自動的にモニタリングしている。無表情である。笑ったり泣いたり跳んだり、話しかけたりしない。店員は客が誰もいなくても一礼してからバックヤードに下がる。賞味期限が先の牛乳が欲しくて奥に手を伸ばすが、あからさまにはしない。店員が刺身に半額のシールを貼りはじめたのを目視で確認し、近くをうろうろする。レジに並び、前のおばあちゃんが小銭を出すのに手間取っていても文句は言わない。マイバッグは持参している。籠を戻し、一定の速度で店を後にする。
社会とは、決まり事や暗黙の了解による仕組みのように思っている。しかし、思っているのは私であって、皆がそうであるとは限らない。ましてや、society を翻訳した先人はそう思っていなかったどころか、原語の意味するところさえわからずに時代の荒波に放り込まれたのだった。
著者の柳父章は、冒頭からポンとこう述べる。通読して感じるのは、とても明晰な思考の持ち主である。だらだらと書かない。これだけ深遠なる内容を各章20ページほどにまとめ、事実の検証に自身の考察をまじえて過不足がない。
East meets west 以前、society は日本になかった。蘭学者による「交ル、集ル」(『波留麻和解』、稲村三伯、1796年)、幕末のフランス学者が「仲間、懇、交リ」(『仏語明要』、村上英俊、1864年)、明治6年に「会、会社、連衆、交際、合同、社友」(『附音挿図英和字彙』、柴田昌吉、子安峻、1873年)と、翻訳は流転する。
1868年(慶応4年)、福沢諭吉は「人間交際」という訳語をあてる(『西洋事情 外編』)。交際は伝来の日本語だが、より抽象化を試みた「人間交際」は彼による造語である。造語をつくるということは、かなり勇気のいることではないだろうか。そして、「どうも society は旧来の日本語では捉えきれるものではないぞ」と感得したところに、彼の、彼らの凄さがあるように思う。
明治6年に結成された「明六社」メンバーである福沢諭吉、西周、中村正直、森有礼らによって、次第に「社会」という造語が姿を現し、頻度を増し、society の翻訳語として成立していく。
日本人は「社会」を「社」と「会」に分解してそれぞれの漢字がもつ意味を感じとることができる。私の場合、「社」は神社や祭り(祀り、政)を、「会」は寄り合いを連想させる。つまりは閉鎖的なムラ社会を想わせるがゆえに、私にとっての「社会」という語感はよろしくないものとして固定されたのではないだろうか。
しかし本書は、『学問のすすめ』(1876年)を考察し、「まず端的に言って、「社会」はいい意味、「世間」は悪い意味である」と述べる。
そう、「社会」は肯定的な価値をもって登場したのであり、今でも多くの人たちにとって「抽象的な意味内容」は肯定的なのかもしれない。
それでも本書は、さらなる洞察を読者に求める。中村正直はミルの On Liberty を翻訳する(『自由之理』、1872年)。「ミルにとって、liberty の、同書における最大の対立者は、society であった」と著者は述べる。「社会」は肯定的であったはずが、「自由」を前にして否定的になる。だからだろうか、中村正直は society をあえて「政府」と訳している。
次章の「個人」も濃密である。
individual も、翻訳は混迷を極める。「ひとり」「人民各箇」「一身ノ身持」。福沢諭吉が「独一個人」と訳し、やがて「個人」となった。造語である。ここで大事なのは、「社会」と「個人」は対立するのではなく、密接に係わり合うということだろう。
個人なくして社会なし、逆もまた同じ。「社会」と同じく「個人」も日本にはなかった。では、なにがあったのか。おそらく「家」だったのではないか。
私たちは、分からないままありがたく、音読み2文字の単語をいただいたのであった。すべてが新造語であったのではない。もともと日本語としてあった言葉も新しい意味を翻訳語として授けられた。「自由」「自然」もそうである。
翻訳語は、原語と等しくはなく、元来の漢籍や日本語とも等しくはなく、新しい意味を帯びてゆく。
子どもの頃から私は、「社会」という言葉と意味するところが好きではなかった。授業の教科としても好きではない。予感があったのだ。「社会人」となるとより一層わからない。働いて自分の生活を自足でき、社会の役に立つ大人が社会人だ、という認識がある。じゃあ、社会って何?となる。反社会的なのは子どもではなく、大人ばかりである。
「多様性のある社会」はあるかもしれない。でも、「社会の多様性」はないように思う。なぜなら、私のとっての「社会」とは規範であり、決まり事だったからだ。
社会はひとつしかない。
特に日本においては、島国という地政学的な条件、民族や言語の均質性から「社会」といえば「日本社会」になった。
私は、冒険家や探検家と呼ばれる人たちに憧れがある。本人がどう思っているかは別として、「非社会」「脱社会」がどこまで可能か試し、その実験を続けるためにおそらくは仕方なく「社会」と関係をもっている。ホームレスは非社会だろうか。本当にそうだろうか。
社会なんてないのかもしれない。概念さえなかったのだから。充填する意味よりも先に言葉という箱がつくられたのだから。原語の society も怪しい。ないかもしれない。私たちが「社会」だと信じてきたものは、本当はないのかもしれない。
私だけかもしれないが、そう思うだけで、こころもからだも軽くなる。