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京都で森見登美彦作品の世界を体感する
薔薇色のキャンパスライフを夢見るものの、程遠い現実を四畳半で過ごす大学生のどうしようもない日々。
黒髪の乙女と彼女に想いを寄せる先輩が繰り広げる、魅惑と驚きに満ちた珍道中。
阿呆の血の赴くままに、一風変わった騒動を繰り広げる狸たちを中心に描かれる、荒唐無稽な出来事たち。
独特な世界観で起こる人間模様(狸も含む)をおもしろおかしく描きつつ、読者を愉快で痛快な気分に誘うあそび心に満ちた文章は、森見登美彦作品の真骨頂と言えるかもしれない。
そして、そんな森見さんが綴る小説に欠かせないのが、一癖も二癖もある個性豊かな登場人物たちはもちろんのこと、多くの物語の舞台となっている京都の街並み。
今回は、森見登美彦作品に登場する者たちが闊歩した京都の街で、彼らが物語を飛び超えて駆けぬけた場所をたどりながら、物語を追体験することにした。
◇
季節は冬と春の境目。
時折、頭上をおおう分厚い雲に戦々恐々としながらも、雲の隙間から街を照らす柔らかい日差しに、心は浮き足だってしまう。
そんな京都の街で最初に訪れたのは、京阪電車・出町柳駅を出てすぐ、高野川と加茂川が合流して「鴨川」と名前を変えるちょうど境目となる三角地帯。
地元の人々からは「鴨川デルタ」いう名称と親しまれている。
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鴨川デルタはこの時刻になっても人影があって、ざわめいていた。軽佻浮薄な大学生たちが、何か良からぬことを企んでうごうごしているのであろう。(p.66)
小説『四畳半神話大系』では新歓コンパの会場として、どんちゃん騒ぎのオンステージで大活躍していたが、明るいうちに訪れると、子どもを連れて穏やかに過ごす家族連れの姿が目立った。
さらに、この「鴨川デルタ」を南の方角に歩いていくと、恋人が等間隔に座っていることでも有名な鴨川沿いの景色を「四条大橋」から堪能することができる。
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ちなみに、小説『有頂天家族』では、主人公である狸の矢三郎が偽電気ブランを飲んで盛大に酔っ払ったあと、この橋の欄干に優雅に持たれて酔いを覚ましていた。現実では真似しないように。
そして、そんな「四条大橋」の近くには、一際、目を惹かれるレトロな建物がある。
それが、異国情緒の雰囲気が漂う外観とは裏腹に、本格的な中華料理を楽しめる「東華菜館」というレストラン。
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日本最古のエレベーターが今もなお稼働してる「東華菜館」は、『恋文の技術』で主人公が思いを寄せる相手が訪れた場所であり、『有頂天家族』の登場人物である美女・弁天が足蹴にした建物でもある。
「東華菜館」という店に行ったことがおありですか。四条大橋の西にある店です。伊吹さんが行ったそうなのですが、どんなところでしょうか。男女がデートするような、オシャレなところでしょうか。(p.102)
彼女が鴨川を一息に飛び越え、「東華菜館」の屋上にあるスペイン風の塔を踏み台にして、またそこから煌めく夜の街へ飛び去るのが見えた。(p.44)
小説による、ロマンティック格差がすごい。
それにしても、以前は知らずしらず眺めていた建物が、物語のなかで不意に実態をともなって現れると、途端に特別な存在へと塗り変わっていくから不思議だ。
そんな思いにうつつを抜かしながら、「鴨川デルタ」を後にして向かったのは、森見登美彦作品で多くの登場人物が訪れた「糺の森」。
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木々に囲まれて静かな空気が流れる道を奥に進むと、楠や榎が生い茂る道の先に「下鴨神社」が見えてくる。
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『有頂天家族』では、狸の名門・下鴨一家の拠点にもなっている場所で、主人公たちが気兼ねなく暮らせるのは、夏でも涼しげな「糺の森」のなかにあるからかもしれない。
私は弟と一緒に糺の森を流れる小川に足を浸し、清水焼のどんぶりに注いだラムネで一杯やったり、恩師の天狗「赤玉先生」のもとへ弁当と赤玉ポートワインを届けて過ごした。(p58)
悠然とそびえたつ真っ赤な鳥居と、輝かしい木漏れ日が溢れる道には、神聖な雰囲気が漂いつつも、どこからか物語の登場人物がひょいと顔を出してきそうな予感を感じさせた。
また「下鴨神社」は、真夏に古本市が開かれることでも有名で、数多くの古本屋が軒を連ねては、活気ある場所へと様変わりする。
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下鴨神社の森に足を踏み入れて蝉時雨を浴びながら、どこまでも続く古本の洪水を見た時の感動を、私は忘れることがないでしょう。(p.83)
『夜は短し歩けよ乙女』で登場する黒髪の乙女が、思い出の絵本「ラ・タ・タ・タム」を探しに真夏の古本市を駆けぬける姿は、物語を彩る名場面の一つ。
ついでにいうと、『四畳半神話体系』に登場する明石さんが店番をしていたのもこの古本市だった。
お目当ての本を探しにいくのも良し、はたまた、この場所でしか味わえない偶然の出会いを期待するのも、それはそれで良し。
今年は茹だるような夏の暑さのなか、人混みをかき分けて思いおもいの本を見つけに、下鴨神社の古本市を訪れてみてはどうだろう。
◇
その後、京都大学のキャンパスが近くにある「百万遍通り」をのんびりと歩きながら、次の目的地を目指す。
なぜ、そんな場所にいたのかというと、昭和5年に創業された歴史ある喫茶店「進々道」を訪れてみたかったからだ。
『夜は短し歩けよ乙女』のとあるワンシーンで、とても印象深く登場するこの喫茶店は、ゆっくりと本を読んだり、焼きたてのパンに舌鼓を打ったり、珈琲を飲みながら会話に花を咲かせたりすることができる。
薄暗い店内には、黒光りする長テーブルを挟んで人々が語り合う声、匙で珈琲をまぜる音、本のページをめくる音が充ちています。
店内を撮影することはできないけれど、小説に出てくるこの一節は、どんな写真よりも「進々道」の雰囲気を雄弁に語っていて、ドアを開いたときの懐かしい風景を鮮明に思い出させてくれる。
むろん、珈琲も美味しくいただいた。
◇
そうやって、穏やかな昼下がりを過ごし、日も暮れ始めた頃からにわかに活気付くのが、夜の京都を代表する街でもある「先斗町」。
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紅い提灯、電光看板、軒橙、自動販売機や飾り窓の明かりが、狭い街路の両側にまるで夜店の明かりのようにどこまでも連なります。その中を三々五々連れだった人々が楽しげに抜けていくのです。(p.38)
黒髪の乙女が「偽電気ブラン」を求めて練り歩いたこの場所は、街灯やお店の提灯に照らされて、怪しくも眩しい雰囲気を醸しだしている。
実際のところ、密やかに営まれる高級料亭が立ち並ぶこの通りでは、気安くお店の敷居を跨げないのだけれど、歩いているだけで十分、この魅惑の世界を楽しむことができる。
ただ、油断していると、別の世界へと迷い込んでしまいそうな現実離れした場所で、世にも奇妙な物語が始まるのも無理がない気もした。
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また、そんな「先斗町」の狭い路地を抜けた隣の通りにある「木屋町」では、街のなかを流れる川に沿って、お酒を求めさまよう多くの人々の姿を目にすることができる。
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この日も多くの観光客やサラリーマンがお酒を楽しんでは、酔っ払いながら次の店になだれ込んでいく光景をたびたび目にした。
もしかしたら、ビールを水の如く飲み干す羽貫さんや、終始謎めいた雰囲気を振りまく樋口さんを筆頭に、森見登美彦作品に登場する個性豊かな人々とお酒を酌み交わすチャンスなのかもしれない。
酩酊した彼らを遠巻きに眺めながら、そんな夢うつつなことを一人思ったのだった。
◇
最後に、写真におさめたのは、『有頂天家族』や『聖なる怠け者の冒険』で登場する「レストラン菊水」。
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真ん中がぽこんと高く飛び出していて、そのてっぺんがつるりと丸いのがいつ見ても妙ちくりんである。壁面に並んでいる縦長の二連窓から細く明かりが漏れてきらきらしているのが、酩酊している私には模型細工のように見えた。(p.43)
まさに小説の引用のとおり、見れば見るほど変わった形をしている建物だと思った。
ディナーにも宴会にも対応しているうえ、屋上はビアガーデンになっており、こちらもお酒を楽しむにはうってつけの場所だ。
今回の旅では、どの建物も遠くから眺めるだけだったけれど、いつかは店内で登場人物たちのように京都の夜を存分に楽しんでみたい。
もちろん、お酒はほどほどに。
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さて、いかがだっただろうか。
文章にたびたび登場した小説たちは、アニメーション作品として映像化されているものも多いので、様々なカタチで物語を楽しむことができる。
ぜひ、最後まで文章を読んでくれたかたは、京都の旅のついでに物語をお供にして、摩訶不思議な森見ワールドへ足を踏み入れてみてはどうだろう。
運が良ければ、京都の街を昼夜問わず駆け回っている、個性豊かな物語の登場人物たちにも出会えるかもしれないから。
〈取材・文=ばやし(@kwhrbys_sk)〉