愛されていたことに気付いた日
就職活動中、私は人との連絡をかなり遮断していたように思えます。
理由は2つ。
1つ目は単純に、周りが就職活動を終わらせていく様子を見るのが怖かったから。
2つ目は、いつも通りの生活をしているだけじゃ就活なんて終われない!追い込まなきゃ!もっともっと厳しくしなきゃ!と思ってしまったからです。
就職活動がひと段落ついた今、
2つ目の理由は杞憂だったかも知れないなぁと思うことがあります。
就職活動中はとにかく、何故上手くいかないんだろう、何が駄目なんだろう、何を改善すればいいんだろう、もっと考えなきゃ、もっと練習しなきゃ、もっと自分を知らなきゃ、もっと、もっともっと、もっともっともっと、、、、、
と、盲目になっていました。
そのせいで、なんだか毎日追い込まれるように生きていたし、今まで息抜きにしていた趣味からも遠ざかって、今まで連絡をとっていた友達にもLINEが返信できなくなってしまいました。
いつも通りの日々を過ごしている自分に罪悪感を感じてしょうがなかった。
もっと違うことをしないとダメだ、変われない。
必死でした。
私は、頑張らなくてもそのままでいいんだよ論推奨派ではないので、
人生にはそんな必死な時期も必要だろう
とは思うのですが
必死になり方を間違えてしまいました。
あるひとつの企業から内定をいただいた後、
まだ就職活動は続けるつもりでしたが、姉と母、数人の友人に、少しずつ連絡を返していき、内定の報告をしました。
みんな喜んでくれました。
どんな会社であってもとりあえずひとつ目標を達成できたことは、認めてもらえたのかなと
嬉しく思いました。
それと同時に、
家族や友達がどんなに私のことを心配してくれていて気にかけてくれていて、
そして私の幸せを自分のことのように喜んでくれる存在なのか
わかっていたはずなのにわかっていなかった事がものすごく身に染みて
私ってすごく愛されているんだなぁ
と感じました。
大学生になってから私は友達が減ったと思います。
家の事情でアルバイトばかりしていたのでサークルは入っていなかったし、友達に遊びに誘われてもアルバイトで断ることもしばしばあって、正直人付き合いの悪い、めんどくさいヤツだったと思います。
新たな出会いも自分から作らなかったので、友人の輪は本当に小さいものでした。
家族に対しても
私の家族は、底抜けに優しいというより、厳しさも優しさの1つという考え方に寄っていて
どんな時であっても優しい言葉より、正論を優先するところがあります。
そこがどうしても私は相容れなくて、大学進学で一人暮らしを始めてからは、あまり連絡を取ることはなくなりました。今更、弱音を吐く相手には選べませんでした。
私にとって就職活動を始める前の弱音の捌け口はTwitterだったりしました。
趣味のアカウントがあったのでたまにポロッと弱音を吐くことで、救われていたけれど、それでも就職活動中は、趣味に時間を費やしている場合ではないと思って
その部分は遮断してしまっていました。
その結果が8月まで長期化した就活です。
もちろんそれだけが原因ではないと思います。
でも
もっと素直に人に頼れていたら、
弱音を吐いて助けを求めていたら、
もっと早くに新しい視野で生きていけていたかもしれない、と思います。
でもそれができなかったのは
ダメな人間というレッテルを貼られるのが怖かったから
弱みを見せて、
なんだこんなこともできないのか、と
厳しい言葉を浴びるのが怖かった。
ダメなヤツだと思われたくなかった。
出来ていなくても
出来るフリだけしていたかった。
これを書いていて、また、
つくづく弱い人間だなぁと自分を責めてしまいそうです。
でも、
就職活動の結果を報告して、
自分は愛されていると気付いた日、
もっと私は周りに弱みを見せるべきだ、
と気付きました。
私が逃げていたのは
就職活動の辛さでも
自己分析の出来なさでもなく
ダメな自分を見せてプライドを失うことへの恐怖でした。
私がダメ人間だからといって
たぶん周りは私を離れない
助けてくれるかどうかはわからない
厳しい言葉も発せられるかもしれない
でも絶対見捨てない
私の周りにいるのは、そういう、愛も厳しさもある人たちだから
もっと周りを信じて
ぶつかろう。
受け止めよう。
苦しんだことで気付けた大事なことのお話でした。
おまけ🌵
サボテンの花言葉は『枯れない愛』『燃える心』