吉本ばなな『ミトンとふびん』(毎日読書メモ(503))
吉本ばなな『ミトンとふびん』(新潮社)を読んだ。久しぶりの吉本ばなな。
同世代の人が、粗削りな文章なのに、なんでこんなに人の心を打つ小説を書けるのだろう、と、驚いていた若い頃、デビューしたての吉本ばななの本を新刊が出るたびに買い、何回も読んだ。『キッチン』、『うたかた/サンクチュアリ』、『哀しい予感』、『TUGUMI』、『白河夜船』、どれも単行本を初版で買い、引っ越しの時も持ち歩き、今でも我が家の本棚にある。あんなに好きだったのに、全体的にスピリチュアルな方向に傾倒し過ぎな感じがしてきて(最初期から、親しい人の死をテーマにしていることが多く、スピリチュアルな傾向はある程度あったけれど、あまりに過度になったように思えて抵抗感が出てきた)、だんだん遠ざかって、殆ど読まなくなってしまった。
比較的最近(といっても単行本が出たのは2015年)では、『ふなふな船橋』(朝日新聞出版、のち朝日文庫)が気になって読んだのだが、思ったほど、それが船橋である必然性が感じられず、むむむ、と思っているうちに終わってしまい、またちょっと遠ざかり、でも、一昨年の暮れに刊行されて、話題になっていた『ミトンとふびん』はなんだか気になっていて、ようやく、という感じで読んだ。
短編集で、6つの、色々な長さの短編が収められているが、いずれも、親しい人との死別、そして旅、をテーマにしている。
「夢の中」金沢
「SINSIN AND THE MOUSE」台北
「ミトンとふびん」ヘルシンキ
「カロンテ」ローマ
「珊瑚のリング」香港
「情け嶋」八丈島
身近な人を喪った深い哀しみと喪失感、それがふだんと違う場所への旅で静かに少しずつ変容する。
哀しみをこらえる必要はない。悲しむべき時期に、悲しむべきだけの長さをかけてゆっくり、哀しみを消化していかなくてはならない。
それは、普段の生活の中ででも無意識にしていることだが、旅先の、普段かがない空気や、普段食べないもの、普段見ない光景の中で、五感が別れとの共存の道を探っていくのを感じられるようになる、その様子がこれらの短編たちの中で静かに描き出されている。
一緒に悼む人たちとの静かな対話。旅先で出会った人との交流。静かに流れる涙。
観光地をわちゃわちゃと巡る旅とはちょっと違う、行った先の地面をしっかり踏みしめ、見つめる光景。
最初は踏み出せない足が、旅の終わりには出るようになっている。
だからって忘れるのではなく、自分の中に、喪失感が静かに定着していく、その過程を感じながら生きる。
かつて、村上春樹が「死は生の対極としてではなく、その一部として存在してる」と書いていたが(多くの人は『ノルウェイの森』でこの文を読んでいると思うが、わたしが最初に見たのは「蛍」という短篇においてだった)、吉本ばななの小説を読んでいても、同じような感覚があるな、と思う。
若い時から気づいている人もいるし、年を取ってきて、少しずつそれが感じられるようになる人もいる。
死を受容しながら、生きていく、って書いちゃうと身もふたもないが、それを感じさせてくれる、そういう読書だった。
そして、この小説で書かれた土地、行ったことある場所もない場所もあるけれど、その風景を眺めてみたい、と思った。
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