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毎日読書メモ(212)『ハムネット』(マギー・オファーレル)

年明けから幸せな読書。昨年の11月に刊行されたばかりの、マギー・オファーレル『ハムネット』(小竹由美子訳、新潮クレスト・ブックス)を読んだ。ハムレットじゃないよ、ハムネットだよ。
裏表紙に大きくネタバレされているので、多くの読者は主要登場人物が「ハムレット」の作者であることをイメージして読むことになるが、その人の名は作中では一度として出てこない。主役のアグネスの夫、没落した手袋職人ジョンとその妻メアリの息子、イライザの兄、スザンナとハムネットとジュディスの父、関係性でのみ語られる、あの、世界的文学者。

タイムラインは錯綜する。最初は、11歳のハムネットが、双子の妹ジュディスの体調不良に気づき、助けを求めて家の中をさまよい、更に医者を呼びに行くシーンから始まる。その症状は、16世紀のパンデミックであったペストへの罹患を予感させる。しかし物語は、突然遡って、母アグネスの不思議な生い立ち、そしてハムネットの父がアグネスと運命的な出会いをして結婚に至った経緯を、双方の視点から語り、複数の時制がかわるがわる現れる。
羊毛の闇取引をきっかけに、町の名士から落ちぶれた父ジョンの精神的な支配下にいては、夫が自立することは出来ないと思ったアグネスは夫にロンドンに行くことを勧め、当初は父の作った手袋の販売を名目にしてロンドンに行った息子は、いつの間にか劇作家となり、自らも舞台に立つようになる。その芝居は評判になり、王様が見に来るようにまでなる。しかし、2回目の出産で生まれた男女のうち娘のジュディスがあまりに病弱で、空気の悪いロンドンに移住することは論外、ということでアグネスと子どもたちはそのまま舅姑の支配下に置かれた生活を続ける。
とはいえ、アグネスの思考回路はきわめて独自。第一子を出産するときは一人で森に向かい、誰も見ていないところで娘を産み落とし、自らへその緒を切る。結婚する前は鷹匠としてチョウゲンボウを育て、養蜂を行い、また薬草の知識も深い。結婚して町(ストラトフォード・アポン・エイヴォン)に来た後も、体調不良の人が彼女のもとを訪れ、薬を調合して貰ったりしている。彼女は誰かの手を掴み、目を見ると、その人の考えていることがわかる。彼女は、このまま生まれ故郷にいると夫が自分を発揮できないと観て取って彼をロンドンに送り出したが、その後、自分の理解を逸脱した事態が色々発生し、動揺し、苦しむ。この長い物語の中で、読者は気づかないうちにアグネスの苦しみや哀しみや怒りと寄り添っていくようになる。
パンデミックが遠く中東からロンドンへ、更にストラトフォード・アポン・エイヴォンに到達する様子を描いた幻想的な一章は、現在のパンデミックが発生するより前に書かれたとのことだが、その光景を想像しながら読み進め、戦慄してしまう(そしてネットでペストについて調べてしまって更に戦慄する)。
弱っていくジュディスにかまけていたら、いつの間にか双子の兄も感染しており、神に召されたのは男の子の方だった、という衝撃。立ち直れない母、息子の死後、ロンドンから戻ってきたが、また家族を置いて去っていく父、責める母。
そして、単身赴任状態が続く父親からの連絡が途絶えがちになっていた時期に公演された新作は、死んだ息子の名前にちなんだ悲劇だった。何故そんなことが出来る?、と怒り心頭のアグネスは初めてロンドンに向かう。

緻密に描かれた物語は、400年以上前のこととは思えないリアルさでわたしたちに迫ってくるが、これはすべて作者の構築した、完全な物語である。
モデルとなった劇作家の生涯にはわかっていないことの方が多く、子どもたちが生まれた後、ロンドンに行くまでの経緯等は何も資料が残っておらず、未だに「失われた年月」 (The Lost Years)と呼ばれているらしい。故郷に残していった年上の妻(一般にはアン・ハサウェイと呼ばれているが、アグネスという名前だった、という説もある)は、悪妻と呼ばれることが多いが、この物語の中では不思議な魅力を秘めた謎多き女性として描かれ(一歩間違えると魔女狩りに遭ってしまいそうな魔性を感じさせる)、彼女が、夫の創作の源となっていたのだろうか、と思わせる。
男の従属物として生きるのではない、強い生命力を感じさせる、魅力的なキャラクター。架空だけど、こんな人もいたのだろうと思わせる。史実ではないけれど、歴史から生まれた、新しく力強い物語を堪能した。

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