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【詩的生活宣言*5】鳴り止まない恋は、アフタービート。
クラシック音楽はアフタービート
私は、タタタターンで始まる、あのベートーヴェン作曲交響曲第五番の譜面を初めて見た時の衝撃を、まざまざと思い出すことができる。あのテーマは休符で始まるのだ(そう、バッハの作品と同じように)。滑稽な表記で心苦しいが、つまり、あのテーマは「タタタターン」ではなく、「『ン』タタタターン」と書かれているのだ。一小節に四つ入る音のうち最初の音を休符にし、続けてタタタと音を三つ書き、次の小節でターンとくる。こんな譜面の書き方をあのタタタターンという音楽から一体誰が想像し得ただろうか。「ヨーロッパの音楽史にとって、ベートーヴェンが五番のシンフォニーを書いた事の意味は何なのだろう?」K氏は恰も自問しているように呟いた。
「書いた事の意味?」
「君も勿論あの譜面を知っているだろうが、あれは八分休符(原文傍点)で始まり、そのあとに八分音符が三つ続く。あの衝撃的な開始音は後拍で始まる。これは、アフタービート以外の何物でもない。そして、このいわば、ジャズやロックでいえば『食った』ようなアフタービートのパターンが連綿と休む事なく一楽章の最後まで続く。いってみれば、ビートのお化けの様な音楽だ。こんな作品を書いた人物は後にも先にも彼一人だ。そして、もっと驚くべき事に、フランス革命直後といってもいい一八〇八年にウィーンで初演されて以来、この作品はヨーロッパ中で演奏され、聴衆の喝采を浴びているのだ」
森本恭正『西洋音楽論 クラシックに狂気を聴け』(光文社新書 2011年12月)より
僕は小さいころから歌うことが好きでした。特段上手かったり、きれいな声がでたり、音感がすぐれていたり、リズム感があるというわけではありません。それでも、いまも気づいたら何かを口ずさんでいることがしばしばあります。それこそ、小学生のころに歌っていたわけのわからない替え歌のようなものも歌っていることもあります。ギターで弾き語りをしてみたり、バンドを組んでみたり、合唱サークルに入って歌を歌ってみたり、萩原朔太郎や立原道造の詩と音楽の関係についても少々研究をしていたこともあります。僕にとって音楽は、何か原点にいつもあったように思います(上手下手は関係なく)。
そんななか、この『西洋音楽論 クラシックに狂気を聴け』を何年かまえに読んだとき、僕のなかで衝撃が走ったことをよく覚えています。「クラシック音楽もアフタービート」。つまりは、クラシック音楽も、ロックやジャズのようにウラ拍でノる音楽だということ。それまでは、(あまりちゃんと聴いていなかったので)クラシック音楽は端正でただ美しい音楽を奏でるもの、なんだかヒーリングになるようなもの……くらいにしか思っていませんでしたが、この著作でロックのような「熱狂」がそこにあるのかと思い始めると、途端にクラシック音楽に熱いものを感じるようになりました。思えば、高校生のときに「トルコ行進曲」をエレキギターで弾いていたら妙にしっくりくるなあと感じていました。だから、それこそヒーリングどころではなく、エキサイトがそこにはあるのでした。
以来、僕はよくクラシックを聴くようになりました。ショパン、ラフマニノフ、シューマン、ドビュッシー、ベートーヴェン、サティ……名だたる作曲家たちの名曲、そして、名演奏家の名盤を聴いていきました。さまざま聴いてはみたものの、いちばんしっくりくる演奏はクリスティアン・ツィマーマンのピアノでした。ショパンの「バラード」やラフマニノフの「ピアノ協奏曲第二番」(小澤征爾&ボストン交響楽団)は何度聴いたかわからないほどです。
それからは、何度か音楽会にも足を運ぶようになりました。もともと、アーティストのライブを聴きにいくことは年に一度くらいあったのですが、いつもスタンディングでワーワーやることに抵抗がありました。座って、音楽を聴くことに没入したい。そういう意味で、クラシック音楽の演奏会の緊張感というのは、自分には性に合っているように思いました。
今年で言えば、ゴールデンウィークの「ラ・フォル・ジュネ TOKYO 2018」でショパンの「ピアノ協奏曲第一番」を聴きにいきました。50分の演奏時間だったので、間延びせずに、集中して聴くことができました。次に、サントリーホールに「プラハ放送交響楽団」の「モルダウ」と「新世界より」を聴きに行きました。そのときにラフマニノフの「ピアノ協奏曲第二番」の演奏もあって、大いにエキサイトしたものでした。そのほか、「サントリーホール サマーフェスティバル2018」にも行ってピエール・ブーレーズの「プリ・スロン・プリ ~マラルメの肖像~」を聴きに行ったのですが、これはまた別の悦楽がありますので、今回は措きましょう。
いずれも、オーケストラというのは、人数もさることながら、規模が大きいです。バンドのライブに行ってここまでの人数が同時に演奏をするということはほとんどありません。だから、あれだけの規模の演奏をして、むしろ、それでも聴衆が熱狂しないのならば、それは演奏がひどかったか、曲そのものが退屈か、あるいは現代音楽のように一般聴衆をまったく受け付けない境地にあるかどれかでしょう。それゆえに、スタンディングオベーションとまではいかずとも、至上のリスペクトとエキサイトをもってして拍手をおくりました。
ジャン=マルク・ルイサダ ピアノ・リサイタル
一方、一番最近の演奏会は、紀尾井ホールでのピアノリサイタルです。しかも、名手ジャン=マルク・ルイサダの演奏会です。彼がステージに現れたときの感動は何とも言いようのない喜びと興奮がありましたが、やはりオーケストラとは何か違う感触がありましたので、ここにその手触りのようなものを書き綴っておきましょう。
PROGLAM
F.ショパン :4つのマズルカ Op.24
第14番 ト短調
第15番 ハ長調
第16番 変イ長調
第17番 変ロ短調
R.シューマン :ダヴィッド同盟舞曲集 Op.6
F.ショパン :幻想曲 へ短調 Op.49
C.ドビュッシー :映像 第1集
「水の反映」「ラモーをたたえて」「運動」
映像 第2集
「葉ずえを渡る鐘」「荒れた寺にかかる月」「金色の魚」
ともあれ、最初の曲が演奏されたときは鳥肌が立ちました。何という美しい音色を奏でるのだろう。どんどんとルイサダの演奏に引きこまれていきます。音のつぶのなめらかさと、自由なリズム感と、深い音色、そして、なによりも豊かなイメージがそこにはあるような気がしました。
そのイメージのなかに没入していく。
音楽は、非言語藝術です。もちろん、西洋音楽理論にはコードがあるし、それぞれのイメージというのは言語的に設定されてはいますが、「音」という目に見えるものでもなく、つかまえられるものでもないという、極めて純粋な抽象表現だと思うのです。だから、演奏を聴いて、何を感じるのも、それこそ本当に、聴衆一人ひとりの感覚、来歴、記憶に委ねられていると言っていいものだと思います。
演奏家が描き出すイメージを完全に理解することはできなくとも、まず聴衆に何らかのイメージを喚起させることができるということが、まず一流の演奏家たる所以なのでしょう。
ルイサダが作り出すイメージをたどっていく。音色とメロディをたどっていく。すると、だんだんとあるイメージが、像が、僕の脳裏に浮かんでくる。そして、だんだんと、あれ、音が、聴こえなく、なってくる。ん? イメージだけがある……。
何も、聴こえない。
音が遠くにある。
なに、これは、夢……??
と思うと、ふっと音がよみがえる。まだ、演奏はつづいている。あれ、僕は、眠っていた……?
しかし、僕はたしかに演奏を聴いていて、そのイメージに没入して……いたはずなのだが……。
どんな言い訳をしようと、僕はいつのまにか眠っていたわけですが、それでも、言い訳を続けてみたいのは、なにか、この音楽の聴き方というのは、音楽の本質に触れたのではないかとも思ったからです。
音楽と眠りと夢
眠っているときに見る夢のもつ不思議な感覚は形容しがたい。
夢を見ているときの、すべてが不確かな感覚で、何かを見ている、それが具体的なこともあれば、結局何がなんだかわからないこともあって、喜びもあれば、あまりの怖ろしさに目覚めたとき、得も言われぬ安堵を覚えることもある。あれはいったいなんだと言うのか。
この夢から目覚めたあとの体験は、言ってみればあるイメージをくぐりぬけたあとに感じるもの。
そのトンネルというか、息を止めてプールのなかに潜ったあとにある感触。興奮とは異なる、ひたすらに潜っていく、ダウナーにキマッっていく、イメージへの没入。
おそらく、藝術の効用には二種類あるような気がします。
一つは、ひたすらにエキサイトして、覚醒していく体験を与えるもの。それは、ビートを刻むオーケストラや、ロック、スイングするジャズにあるものです。身体のリズムとリンクして、鼓動が高鳴り、内から湧き上がる熱狂に委ねていく瞬間のように。そして、もう一つは、ピアノ曲のように、ひたすら内に没入していく、鎮静し、潜っていくような効用です。それは梅雨時に部屋のなかで聴く雨音のようなもの。部屋のなかの、空間の輪郭を、その内部に自分がいることに自覚的になる瞬間の極めて穏やかな時空間のあらわれ。
音楽は、眠りに通じている。そして、夢は、その音楽の内実だ。
夢のなかの、場面の妙な移り変わりと唐突な飛躍。
やがて、ショパンの「幻想曲」を聴いているとその夢の著しい変化と展開を見るようで、僕は、目覚めたあとの静かな時空間のなかで、こんなことを考えていました。
そして、ドビュッシーの「映像」が演奏される。情景を音で捉えようとするドビュッシー。だが、それは単なるリアリズムではない。「水の反映」の湖に朝日が射しているような風景。その光と影のコントラストの美しさ。遠景。しかし、ともすれば、細かい水滴のような微細なものへの観照がある。そして、その水滴も流れ、川となり、やがて大きな力を持つ。そして、「ラモーをたたえて」。夜、ランプのもとで楽譜を書く男の横顔が見える。その筆先、その筆のダイナミックで、かつ神経質な動き。少しずつ、少しずつ、音楽が奏でられていく、音楽が形成されていくあいだの、その思考のうねりが。しかし、書きあぐねて席を立つ。頭を抱えるラモー。そのいらだち。そして、やがて、朝方、一つの音楽を生み出した男の、心地よいほどの疲労と倦怠感と、その音楽の美しさが描かれる……。
などと、それらしいことを言っていますが、こんなものは完全に僕の貧弱な妄想です。
しかし、問題は、ドビュッシーが、そして、ルイサダのピアノが、その無言のうちに、音楽によって、このようなイメージを喚起させる、というのか、伝えてくるということの不思議に、何か詩を読むときのような感覚を覚えるのです。そして、できれば、僕もこんな詩を書きたいと思うものです。エキサイトよりも、雨音のような詩を。そこで奏でられるイメージに没入して、眠りについてもらえるような詩を。
そういえば、萩原朔太郎がこんなことを言っていました。今回は彼にしめてもらいましょう。
私の詩の読者にのぞむ所は、詩の表面に表はれた概念や「ことがら」ではなくして、内部の核心である感情そのものに感触してもらひたいことである。私の心の「かなしみ」「よろこび」「さびしみ」「おそれ」その他言葉や文章では言ひ現はしがたい複雑した特種の感情を、私は自分の詩のリズムによつて表現する。併しリズムは説明ではない。リズムは以心伝心である。そのリズムを無言で感知することの出来る人とのみ、私は手をとつて語り合ふことができる。
(中略)
どんな場合にも、人が自己の感情を完全に表現しようと思つたら、それは容易のわざではない。この場合には言葉は何の役にもたたない。そこには音楽と詩があるばかりである。
(萩原朔太郎『月に吠える』序より)
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