教えてほしくて掻き集める
バラナシの大通りを歩いていたところ、嫁が殺されかけた。
おそらく麻薬中毒かなにかでガリガリに痩せ細った男がよたよた近づいてきて、次の瞬間、嫁の肩に手をまわし、耳を舐めようとしたのだ。
もうほとんど「ホアキンフェニックス」じゃないか。
数メートル後ろにいた僕の体は予期していたのかと思わせるほど自然に動き出し、持っていた折りたたみ傘でホアキンの右肩をグッと押しこんだ。あとずさりし後ろへ倒れるそれに向かって群れをまもるライオンのように牙をむ見せつける。自分にも申しわけ程度の闘争心がそなわっていることをこのとき初めて知った。
前評判の悪名高さから警戒していたつもりだったのだが、突然それはやってきた。一体なにが目的なんだ。殺人か変態か、せめて変態であってくれと祈る。
しかし歯茎が丸見えになるほどの攻撃性を向けたというのに、こいつは倒れたまま、虚なまま、無表情でこちらをみている。
ああ、すごく怖い。
この目は日本だとちょうど綾野剛にしかできない目だ。全くもってどういう感情なのか読みとれない。うろたえすらしないその生物を前にして、身毛がよだつ。猛暑にもかかわらず急激にからだが冷え、正当防衛とはいえ物理的な攻撃をしてしまった事をはげしく後悔した。
事の発端となった嫁はというと、触れられる直前に対処できたことが要因となり、起きたことに気づいてすらおらず、1人でルンルン、楽しそうに歩んでいる。有頂天なままの嫁の腕を鷲づかみ、人混みのなかを早あしで逃げる。
「あのさ、頼むからもう少し警戒してくれよ」
逃げ込んだレストランの中、メニューボードと水を運んできた男の目の前で、恥も外聞もなく嫁を叱りつけた。ことの経緯を説明しても「そうなんだ、危なかったね」と人ごとのようにヘラヘラ笑うのに腹がたち、つい声を荒げた。一度出てきた文句はあふれ出し、ネチネチネチネチ、説教をたれる。貧乏ゆすりが止まらない。
救いようもないほどに攻め立てていると「なにもなかったんだから良いじゃん」とついには逆ギレする嫁。なんだと。
そもそも、インド英語の聞きとりになれてきたからといって、話しかけてくるやつ1人1人に丁寧に返答し、愛想をふりまくのはいかがなものか。男たちがやたらと艶かしい視線をおくり舐めずるように君を見ていたというのに、お構いなしに輝いた目でコミュニュケーションを楽しんでいたから、その結果、特級の変態が寄ってきたんじゃないか。
「だからごめんて」
最終的には「おれにケンカで勝てる腕はないので次からは君がなんとかしてよ」と、もはやなにに腹を立てていたのか見失っている。
疲れた。
一通り叱りつけてもとくに響いている様子はなく「もういいよ」とため息を吐く。でも同時に、彼女のその態度が何事もなく済んだのだなと安心を思い起こさせ、少しずつだが体の熱が戻ってきた。
いつまでもここにいる訳にもいかず、小1時間ほど隠れた後、店を出た。
とはいえ、ホアキンがいなくなったという保証はない。身を小さくし人かげに隠れながら歩き出すと、さっそくホアキンを発見した。奴はアスファルトに散らばる砂を掻き集め、空に向かってそれをばら撒き、天に祈りを捧げている。
どういう意味?呪い殺そうとしてんの?
不思議でならない。僕にはそなわっていない機能。悪い癖が出る。
どれほど強欲かなんて分かっているのだが、彼の心がどうしようもなく知りたくなってしまう。あいつは嫁の耳を舐めようとしたとき、何を願っていたのか、天に雄叫びを上げている時、憂いていたのか、それとも感極まっていたのか。あいつはその祈りの中に何を探していたのか。
恐怖とは裏腹に砂を掻き集める彼の姿に目を奪われる。
知りたい。
立ち止まる僕の顔の周りには小蝿が飛んでいる。そのことを承知していたが、それよりも見ていたかった。
彼の心に入り込もうとする時、自分がなくなっていくようでいて、それでも知りたい気持ちを止められず、それが怖くなった。
以前「母をたずねて三千里」をみていたとき、主人公のマルコが怪我で死にそうな母狐をみつけ、残されゆく小狐を気遣い、助けてあげようとしていた。マルコの母はそれをとめ「動物は母がいなくても強く生きていくものよ」といっていた。
この一説が、自分でも意外なほど猛烈に気にかかった。
これがもし「母がいなくても生きていくものよ」なら、いちいち引っかかることもなかったのかもしれないがこの「強く」という部分が気になった。
そういえば僕にも母親がいない。
母親がいなくなったことについて、周りはいつも気をつかっていた。その人について誰もが不自然なほど口を閉ざし「聞いてはならない」が知らず知らずのうちに定着した。
こちらの思惑としては「いなくて可哀想」より手前の「何でいなくなったか」を知りたいだけだったのだが、そんなことを態度に出してしまうと、自分の態度がそうさせたのだと、なおのこと気をつかわせてしまう気がして、聞くのをやめた。
「なぜ」教えてくれなかったのだろうか?
茶の間にただよう空気は理解していて、子供ながらにも説明されれば納得できたと思う。それに、悪くいえば適当な理由をつけて僕を洗脳することなんて簡単だったはず。なのに避けていたということは要するに、母親がいないことは子供たちにとって悲しいことと捉えていて、それを思い出させたくない気づかいだったのだろう。
しかしここで僕、子供が痛む深度まで大人たちで決めるなよと思う。
母親がいないことが可哀想なことだと理解するまでまだ時間はかかる。当事者からいわせてもらえば、その気遣いその目線その態度こそが、逆に可哀想なことなのだと自覚させる。母親が必要とか必要じゃないとか嘆くことすらさせてくれないのなら、そりゃあ嫌でも大人になるしかなくなる。
揚げ足をとるようにいってしまえば、母親がいなくなって「強く」生きたのではなく、ただ早くに大人になるしかなかったのような気がしてならない。まあ、大人たちの本当の気持ちなどおれには分からないだけなのだろうが。
ある人からみたら冗談のような話かもしれないが、こうしていつしか母は知ることのできない人になった。
これ以上、いくら知ろうとしても答えてくれそうな信頼がない。なので誰もいない日を選び、家の中に母が残っていないか探した。何か1つくらい答えがあるだろう。
ステンレスシンクの上にまあるく残る水錆。それは物心が着く前からあり、どれだけ削っても擦っても消えない。今ある茶碗や湯呑みを重ねてみても同じサイズの食器は見当たらず、もしかしたら母が付けたのかもしれないと思った。
姉によると、商店街の文房具店で母をみたという。親父には内緒にし何度も文房具店に足をはこんだ。駅の逆側、すこし遠かったが、そうしているうちにいつしか文房具が好きになり、ロケット鉛筆をみる度、母の影を重ねている。
もしかしたら固定電話の横にころがるこの古びたペンは、母があの店で買ったものなんじゃないかと勘繰ってみたが、根拠など何もなく、姉が言った「母をみた」も、ただ気を引きたかっただけなんじゃないかと思った。
探すたび「惨めだなぁ」と思う。いっそのこといさぎよく諦めてしまえばいいのに、その粘着質は消えない。気にしていないつもりであったが、身長以上にある戸棚の裏までめくってしまうこの仕草が、母親の影響なんだと思うと、母親の偉大さの理解とともに、寂しさで心臓が握りつぶされるようだった。
1番北側には親父の部屋がある。
光の入らない暗いその部屋は埃っぽく、陰湿で、温度がない。それでいて掃除もしていない。そんな親父なら、あれだけ母親のことに口を閉ざしてきた親父なら、その雑多さのなかに母を保存するきがした。
箪笥の2段目を引き出すと、母親の写真があった。
その人は椅子にあさく座り半端な笑みをうかべている。理路整然とした無機質な写真。「写真にうつりたくない」とよく言っていたらしい。その姿とあたまの隅っこに残っている記憶を照らし合わせてみてもそれ以上思い出せることは何もなく、ただただ「これが母体なのか」と思った。
それが、なんとなくお母さんな気がした。
何も言わないお父さんと、初めてまじまじと見るお母さんが、その部屋の、その引き出しの中でだけつながっていた。
家の中にもういない母親を見つけても対しては意味はない。というか、知ったところで会えるわけでも家族に打ち明けるわけでもないので、これ以上探すのは、だだをこねる子供のように無様に感じ、引き出しを閉めた。
親父の部屋の扉の高いところに、いつしか鍵がかかった。勝手に入ったことに気づくわけがないとたかを括っていたが、そこに鍵がついたということは形跡が残っていた証だろう。
鍵に手が届くようになればなるほど、僕の体は大人になっていた。
この街は、もどし方を忘れたおもちゃ箱のように雑に整列されている。人口の多さからか建物は横に広がるのではなく縦に重なっていき、細くうねった路地には太陽の光が届かない。
昨晩、とある売店の前を通りかかったとき、必死に「なにか」を探す男がいた。彼は僕の目に気付くなり、探しものを中断し誘惑するように「please」といった。飲み物を奢ってもらおうとしているのだ。
ぶしつけに「No」と拒絶すると、彼は大声で怒り出し腹いせに捨ててあるペットボトルのゴミを蹴り飛ばした。突然大きな音を発してあばれだすそれは壊れかけた洗濯機のように見えた。
気になる。
僕が不思議でならないのは「なぜ奢ってもらえる」と思ったのかという部分。普通、初対面の人には奢らない。
もっと言えば彼、いや彼女と言うべきか、その姓についても僕にとってどうでもよくて、そんなの好きにしたらいいと思っている。なので、そうではなく、その女装をした自分が、通りすがりの異国人に何の前振りもなく急に話かけて奢ってもらうという作戦が、なぜ上手くいくと思ったのか。そしてそのずさんな計画が失敗したからといってなぜわめき散らしているのかが気になって仕方ない。
たとえば嫌な考え方をすれば彼、いや彼女が教養も仕事もなく、それをせざるを得なかったのかもしれない。異国人、特に日本人はカモにしやすい噂が立っていてそれが耳に入っていたのかもしれない。万に一奢ってもらえる可能性に賭けて、そこで一日中声をかけ続けるしかないのかもしれない。
同情を誘おうとしたのだろう。人の哀れみにつけこむしか手立てがないのかもしれないと思うと、少しだけ心が痛んだ。ただ、その派手な衣装が同情する気持ちを拒んだ。
本当はそんなことより、今どれほどに喉が渇いていて、今日どんな辛いことがあって、生きることのなにに困っているのか。そういうのを語り合いたい。それができるなら飲み物くらい奢ってあげたいのだけれど、それが出来ない。急な「please」じゃ金を払えなかった。
上からものをみるこの自分の卑しさは置いておいて、ここには変なやつが多くて楽しい。
いまだ空に向かって拝み続けている、このホアキンもそうだ。
この「変な」というのは、僕から見て変な部分や人でしかないので、差別的に思われても言い訳はない。ただ、その「変な」を否定したいのではなく、僕からしたらそれが美しく、羨ましいとさえ思えるときがある。
自意識過剰の僕のような人間は、人から見た場合の「異常」に敏感で、その異常を自分の中から排除しようとしてしまう。それこそがコンプレックスになっていて、だからこそ、その異常さを異常としてではなく、通常として生きれる人たちが輝いて見える。
知りたい。
大袈裟に言えば彼の家に行きたい。普段なにを作り、なにを食べ、どのような場所で寝ているのかが知りたい。どのような家庭環境、文化で育ち、ふだん周りからどう思われてるのかが知りたい。もっといえばXのアカウントでもあればいいのだが、それを覗きたい。なにに興味をいだき、なにを訴え、その思想に至るまで全てを知りたい。それらに基づき次の行動はこうするだろう、ほらみろに興奮したい。しかし大抵の場合このような変な人はその予想に反する事しかしない。それでまた興奮したい。
つまるところ「変」な人が好きなのだ。
変な奴らは自分を誤魔化さない。誤魔化せない。その上で聞いてみたいのは、彼自身の心のなかは統率が取れていて、納得のうえで生きられているのか。
自分自身の向かう方向性すら不安定なおれとの差。
ホアキンの行動は、もちろんただの発情や癇癪の可能性もあるけれど、嫁に触ろうとしたこの男を擁護するつもりなど毛頭もないけれど、それでも彼なりの言い分や、行動原理、弱さをふまえて両側の意見を知ってみたくなる。
そのまっすぐな姿は愚かで無様で、それでいて他には変えがたいほどに美しかった。
姉が結婚すると聞いたとき「母さんに報告しにいこう」と誘った。離れて20数年経つたとはいえ、娘の晴れ姿だ。知りたいに決まっていると思った。
「勝手に決めないでよ」
驚いた。てっきり同じ気持ちでいる物だとばかり思っていた姉に「普段連絡もしないくせに急に電話してきたと思ったら何を勝手に話を進めてんの、あんたが会いたいだけでしょ、ふざけないで」と諌められる。
鋭い。確かにそうだ。姉を利用し、母親に会いに行く勇気を担保しとうとしていた。その魂胆が平気でバレたことがどうしようもなく恥ずかしくなった。
散々続くド正論にいよいよこちらも不機嫌になり「でもさぁ」と切り出してみる。まだ諦めていない。どう説明すれば、どう導けば、どう同情を誘えば、母親に会いたいと言わせることができるか、思考を巡らせながら。
通話越しに聞こえる生活音。姉はこれから苗字を変え、新しい家族を作るのだなと思った。ろくに連絡もしなければ、帰省もしない。それでも一番近い理解者が、別の家族になっていくのが虚しくなり、口ごもり、姉の説教を聞くことしか出来なくなった。
「黙ってお母さんに連絡とったときの、お父さんの気持ちも考えてよ」
そう言われると咄嗟に首を横に振りたくなる。そんな大人の都合はもう懲り懲りだ。それならこちらの気持ちもそのお父さんとやらに考えさせろよといってみたくなるが言えない。人一倍思い入れの強いはずの結婚という儀式に、勝手に母を呼ばれそうになった姉からすれば、口を尖らせる僕に思うことも多々あったと思うので、言う勇気が出ない。
せめて毎月連絡していれば、こんなことにはならなかったかもしれない。たらればしてみたが、連絡ができない。仕方がわからない。そしてそのことを本当は後ろめたく思っているの自分にも気がついている。
この背水の陣からできることといえば「たまにはおれの気持ちも理解してよ」という反抗のような期待のような、粗末な願いしかできなくなる。
なんだよみんなして。いい加減母親のことを知るくらいさせてくれてもいいだろ。もうみんながみんな、傷付いてる事に気が付いてるんだから、これ以上傷口が広がる事がなくなるのなら、一度深く傷ついてしまったほうが楽だというのに。姉だって本当は会いたいはずなのだ。声を聞けばわかる。心を見ればわかる。おれだってただ知りたい「だけ」なのだ。
今更、母だって会うことを望んでないだろう。「もう会わない」という覚悟を踏みにじることになる。誰も望んでいない自分を満たすためだけの好奇心で動き回り、それを邪魔してくる姉や大人たちに、ただ不貞腐れて困らせる事しか出来い自分を恥じた。
お互いわかっていて、それでも姉として正論を吐くしかない彼女の言葉は、僕を「普通じゃない」と扱っているようで、それが酷く痛み、怒られて終わる電話にまた次の電話が遠ざかった。
それでも知りたい。それが怖い。
1人で市役所に行くと、個室に通され、数分後、母の住所が分かった。別の戸籍とはいえ、1親等しか離れていない家族については情報の開示が許されている。
実家の前を通る産業道路の坂を降りた場所。3kmも離れていない所に家があり、母さんの苗字は「さいとう」に変わり、僕と姉以外に2人の子供がいた。
その足で家の前まで行き「出てきてくれ」と「親子なら伝わる何かがあるはず」と願ったが、1時間経っても、2時間経っても、母は出てこなかった。
なにしてんだろ。
僕はよく目を瞑り、鼻から体中の空気を抜く。知れないことや、教えてもらったのに違う気がしたり、人の心なはずなのに納得できない事が増えていくと、頭の中に重たい泥のような空気が溜まった感覚になる。目を瞑り、頭の中に溜まった空気だけを見つめ、出す。鼻の穴が下に向いていてくれていてよかったと思う。大きく吸い込んだ空気に泥を混ぜ合わせ、力を入れれば、勝手に抜けてくれる。10分も続ければ、それが多少は少なくなった気になれる。
結局、他人のことを全て理解するなんて離れ技は出来ない。それがわかっていてもなお、何度も湧き上がってくる「知りたい」という思い。愚かに思う。
答えをどこで腑に落とすか、どこまでで止めるかに限ることなど遠の昔に気付いているのに、それでもなお、あの擦っても消えない水錆のような好奇心が蝕み、人の心に入り込もうとする自分が怖い。
でもわかってあげたい、わかってもらえなかったから。
理解されてこなかった人が理解されないままなのは、複雑な感情をつたえることを諦めたから、という餓鬼の言い分がまだ残っている。
僕も何度も諦めた。「複雑」と一周されるから諦めた。
それを理解してくれない人から見たら、貪る姿は理解できない異形に写っているのかもしれない。そういう目で見られるたび。自分を変える努力をした。変わるしかないと思った。
でもそうはいうけど、じゃあ置き去りにした自分の理解されない心はどうなる。できるだけ降伏していないふりをする。それの連続。
彼らもまた、諦めがつかなかったんじゃないか。それか答えを見つけていたたけれど、納得いかなくてまだ探してたのか。ちゃんと理解してあげられなかったな。
知れれば、見つければ、会えば、覚悟も決まるかと期待してみたのだが、見つけても何かが変わるわけでもないし、会えもしないし、母親がいない「可哀想な自分」から逃れようとしていただけなのだ。
恵みに思う。
自分のことは自分で決めれることが残されているのだということが。
かくして僕の母親探し大作戦は失敗に終わったわけだが、それでも人の心を隅の隅まで理解しようとするなどという傲慢な考えが湧き出てくるのだから、もうしょうがない。どうせこれからもっと大人になるにつれ、世界の最適解を学ぶにつれ、正当化されて見失われていく心なのだとしたら、その最後の最後の1滴になるその日までは、異なる者を理解をしようとすることを、諦めたくない。
道の真ん中で地面に散らばる砂を掻き集め、空に向かってばら撒き、何かの祈りを捧げているホアキンフェニックス。力強く信じて疑わない目から力が抜ける。もっと見ていたいのに、もう終わる。