To do or not to do, that is a question.
前書き
岩波新書のベストセラー、「日本の思想」を書いた丸山眞男は、「戦後日本の上半身」と呼ばれた偉人で、「日本の思想」所収の『「である」ことと「する」こと」』は、今でも国語教科書の定番です。
教育研究の世界は、腐敗しています。まともな授業ができない人や、生徒のことを見ていない人が、”論文”を書いて”研究”の仲間内でもてはやされています。
国語教育の世界に限らず、最近は「~をやめてみた」「~しないこと」などが持て囃される時代ですが、その今だから読みたい名作からインスピレーションを得て、書きました。
したり顔の”ビッグネーム”や「not to do」に吞み込まれてはいけない。
かつて東大に君臨した丸山眞男という男は、知のカリスマであった。
今ではあまり読まれなくなったが、「戦後民主主義の上半身」と呼ばれた彼の書物は、当時、インテリたちの必読書だった(※ちなみに「下半身」は田中角栄である)。
その代表作は『日本の思想』という岩波新書のベストセラーで、その内の「「である」ことと「する」こと」というのは、もう50年以上に渡って、高校の教科書に収められている。
日本の教科書にはくだらない「NGワード」が沢山あるため、かなり誤解を招きやすい編集(=ツギハギ)がされているのだが、
要は【政治】の一点においてだけは、「~である」という状態、つまり停止が前提となる発想ではなく、
「~する」という行動、つまり流動を前提として考え、動き、参加しなくてはならない、ということが主張されている。
シェイクスピアの『ハムレット』では“To be or not to be”(有るか無いか:一般的には「生きるか死ぬか」で知られている)が問題であったが、
現代では表題のように「行動するかしないか」が重要だと説いている。
最近は教科書に載っていても扱わない学校が増えてしまったと聞いている。それはとても残念なことだが、むしろ喜ばしいかもしれない。都合よく編集された教科書よりも、若者たちには、岩波新書で読んでもらいたいからだ。
僕は一応国語の教師なので、自分の授業には自信を持っている。
特に自分でゼロから創ってきたこのクラスの授業にはかなり自信がある。
それは、腐敗した世の「教育論」など歯牙にもかけず、
ニセモノとつるむ「会」には属さず、
どこかで「発表」するためでもなく、
ただただ純粋に授業のために、自分が納得できるまで考え続け、生徒や仲間と切磋琢磨しながら更新し続けて来たからだ。
少なくとも、その辺の国語の教員には負けないだろうと思っている。
同時に、僕は常に不安である。
芥川なら「ぼんやりとした不安」だが、僕の場合は明瞭に不安である。
「自分の考えが間違っているかもしれない」という惧れからは絶対に自由になれないし、相手が自分よりも知識がないという保証もない。
特に、現代文みたいな分野は、教師よりも詳しく知っている生徒なんかいくらいても不思議ではない。
教えている生徒たちを見ていると、少なくとも自分が中3の時よりはよほど優秀である。
彼らが高3にもなれば、自分の手に負えなくなるのはむしろ自然かもしれない。
この3年間、基本的にこういう気分の中で生活してきた。
お恥ずかしい話だが、所詮は僕みたいな凡人の頭の限度である。
とはいえ、結局この「不安」こそが糧なのだと思う。
思考を停止して現実から目を逸らせば、「安心」して同じことを続けられる。
その間に時代も仲間もすっかり変わってしまった。
学校教育に限らず、どの場所でも同じだろう。
彼らは更新される「生」を生きてはいない。ただそこにある(to be)だけだ。
“To do”のダイナミズムの中で暮らすのは不安である。
しかし、その不安定な土台の上にしか、創造は起こり得ない。
丸山眞男が『日本の思想』を発表してから約70年、ポピュリズムが蔓延した今では“not to do”があたかも勝者のような顔をしている。
でも、言い切れる。きっと彼らは僕よりよっぽど「不安」なのか、後で「不安」を味わうか、そのどちらかだ。