過ぎ去った閃光少女
人生で最も充実していた高校時代。
それから打って変わって怠惰な毎日に様変わりした今・大学時代。
明確な違いは、今という時間への熱なのかもしれない。
これは東京事変の楽曲『閃光少女』の歌詞の一部で、中でも私が特に好きなフレーズ。
ざっくり言うと、未来や過去の自分はお構いなく現在(いま)に力の全てを消費し、向こう見ずに現在(いま)へと人生を捧げる人を描いた内容の楽曲。
ただ、一般に歌詞の解釈というものは人の数だけ形がある。
私は断定的に自分の見解を表明するのは少し抵抗があるので、細かい歌詞の考察はあえて口にしないでおく。
私は大学生になってからこの曲を知った。
今では本当に大好きな楽曲。
だけど実は、高校時代までに出会っていたかったな、と悔やむ気持ちも少しある。
部活動に命を燃やした高校生活
高校時代は、私が今までで最も充実していたと言い切れる期間。
その充実の多くの部分は部活動だった。
中学生の後半あたりから創作に興味を持ち始めた私は、高校で文芸部と放送部を兼部し、小説やドラマの制作をしていた。
しかし、これがまあなんとも忙しかった。
それも当然。だって、2つ部活してるんだから。
それに2年次からは、(まんざらでもなかったけれど)不可抗力で文芸部では部長、放送部では副部長の役職を担うことになった。
そしてこれらの制作活動は、学校での活動だけに留まらない。
(文芸部も放送部もちょっとマイナーで活動の実態を広く知られていない部活動なもので、詳しく話すとかなり長くなってしまうため省略するが)活動は学校でのものに加え、執筆や編集などを自宅に持ち帰ることも多く、活動がプライベートにも簡単に侵入してくる部活だった。
そんなわけで、私にとって高校の部活動はもはや日常生活と一体化していた。
それでも、苦痛ではなかった。
本当に熱量を持って自ら選んだ部活動生活だったから。
自分が好きなことで日々が満たされて忙しい状態。
これを充実と呼ばずして何を充実と呼ぼう?
正直、部活ではいろんな人に迷惑をかけた。
自分の創作欲をコントロールすることはできず、無駄に大きな企画を無謀に走らせたこともあった。
「自分で自分の身を忙しくしすぎ」って友達やら先生やらに心配されたことは何度もあったけど、私が忙しくさせてしまったのは自分だけじゃない。
本当に迷惑な意味でも人を巻き込んでいた。
それは今でも申し訳ないと思っている。
そのくせ、表現のスキルがあったわけでもない。
思えば、いくら作品を作っていても、その技量を褒められたことなんて数えられるほどもあったかどうかわからない。
ただ、忙しなく創作に取り組む姿勢には、友達や先生方からも激励や賞賛もたくさんいただいた。
それだけでも嬉しい。
今の私が覚えているのは、疾走した私と、創作欲と、作品たちと、仲間と過ごしたかけがえのない時間。
「みんな、未来に罹っている」
私は高校生のとき、「高校生という時間に忘れ物をしない」という目標を持っていた。
まあ、後悔のない高校生活を、というありふれた考えにすぎない。
高校は青春の真っ盛りでありながら、未来の道を進むための準備をする期間でもある。
今はまだ、何にだってなれる。
だけど今を抜ければ、何にだってなれるわけではなくなる。
そんな意識がうっすらと蔓延していた。
しかし、同時にやってくる高校生という特別みを帯びた時間の価値。
今しかできないこと。
高校生だから、できること。
高校生活が美しく見えるのは、きっとそれが高校生にしか成し得ないものだから。
未来の自分のために学び準備しながらも、高校生としての生活も満喫する。
それをどう実現していくかは、現在と未来に置く価値のバランス次第で、人それぞれによるもの。
私はその天秤を、みんなよりも現在に大きく傾けた高校生だった。
今を我慢して未来を助けたって、過ぎ去った日々に未練を残せば、この先長い人生ずっとその後悔を忘れられないまま過ごすこととなる。
それがとても怖かった。
だったら、多少未来に影響は出ようとも、今を満たすことをまずは優先すべきなのではないか?
どうせ、いつまで生きるのかわかんないんだし。
未来なんて不透明だから、準備も失敗に終わるかもしれないし。
そんな考えだったと思う。
この時点までは、正常なバランス感覚だった。
ところが、高校生活の中で出会ったのは、学校から生徒へ宛てた未来への志向を促すアナウンス。
文理選択だ、模試だ、大学だなんだ。
それが少し、煩わしかったのかもしれない。
当然、未来への準備を不要だと思っていたわけではない。
勉強はそれなり真面目にしていて、手を抜いたつもりはない。
大学だって、どんな勉強がしたいか、どんな学部へ行こうか、そんな程度のことはちゃんと考えていた。
自分が持つ興味にはアンテナを立てて探った。
だけど、学校からの度重なる「未来志向への誘い」は何度も私をげんなりさせた。
何度も頻繁に同じ広告が流れてきてちょっと不快になる感じ。あれに近い。
ともかく、学校というソサイエティから、現在を大切にする私の生き方を応援してもらえている気になれなかった。
口を開けば未来への対策ばっかり。
学校からのアドバイスは、現在と未来のバランスでいうと、極端に未来に傾いていた。
別に、学校側も今を楽しむことを否定したいわけではなかったはず。
ただ、生徒への支援が必要と判断されたものが未来志向のものだっただけ。
でも、私は自分の価値観と圧倒的に異なるバランス感覚でのアドバイスを前に、徐々に未来を考えること自体が嫌になってしまった。
その分、現在にのめり込んでいった。
おまけに、周囲の同級生たちも次々と未来を気にかけた発言をするようになった。
それに触発されて自分も進路の意識を高めていけば良いものを、既に未来志向に対する生理的嫌悪が完成してしまっていた私は素直になれなかった。
「周りみんな、未来に操られる病に罹ってしまった」
とさえ思っていたのかもしれない。
もちろん、そんなのは私の幻覚。
みんなもそれぞれの現在をちゃんと大切にしていたはず。
私の高校生活は現在という時間に命を燃やしたもので、たくさん楽しい経験ができたし、後悔するものではなかった。
けれど、その裏側には、未来志向に対する拒否感を無意識に近いプロセスで徐々に強めている心情もあった。
省みて気づく、私なりの生き方
あれから私は大学生になり、あの頃の充実はどこへやら、何やらずっと心が満たされない生活を送っている。
別に何もしていないわけではないのだけれど。
勉強はおもしろいし、学業はそれなりに出来ている。
だけどどこか、自分がやるべきことをできていない気がして。
怠惰を極めている気がして。
最近も怠惰に関する記事ばっかり書いてるし。
自分の行動力のなさに嘆いては、頻繁に自己嫌悪に陥る。
たぶん、高校時代からのギャップ。
当時の私はあまりに眩すぎた。
そのままのエネルギーをもはや今の私はもっていないのかもしれない。
少なくとも、今にかける情熱は大きく違う。
大学生になって直面する、強迫じみた未来への焦燥。
高校生の頃は、言ったってちゃんと勉強していれば、まあ進学はできる。
でも大学生になってしまえば、院進だか就職だか、その他の新しい選択肢だか。
高校生の頃とは比べられないほど、未来に頭を使わなきゃいけないし、何十年も続いていく自分の人生について、理想なり計画なりを具体的に創っていくことになる。
高校生時代に未来予想図を作ることを後回しにしていた私は、今になって未来の準備に駆り立てられている。
かつて現在に傾けた現在と未来に価値づけるバランス。割く労力の天秤。
熱中する部活動も失い、いろいろあって創作物を外部に発表することをやめた(詳しくはプロフィール記事に書いた)私。
いつの間にか、その天秤は徐々に、未来を重く評価し始めた。
そうしなきゃいけないと思っていた。
無意識的な思考の束縛。
だけど、現在に振り切ったままでもいいのかもしれない。
なんて思ったのは、『閃光少女』を聴いてから。
私にはそっちの方が似合っているかも、なんて思う。
音楽の力とは不思議なもので、曲の中で描かれる主人公が、登場人物が、とても美しく見えるもの。
現在に全てを消費する生き方も選択肢のひとつだと気づいた。
そりゃあ、向こう見ずな選択肢だし、未来に背負うリスクはある程度増えてしまう生き方だとは思う。
万人にオススメされるべきものではない。
だけど、どうせ未来を大切にできない私には、ひとつの正解になる可能性を秘めている。
大学生になって、ようやく未来を意識して、心の中では未来のための行動の大切さを認めることはできても、行動は伴わなかった。
現在を我慢して、未来のための行動をする。
私は、我慢だけして、余った時間と労力を未来のための栄養に変換することができていない。
だから何一つできていない気になるし、その惰性から自己嫌悪に陥ることを繰り返してしまう。
もう、最初から下手なんだ。未来を大切にするのが。
現在に命を燃やす生き方が、高校生のうちにこびりついてしまったのだろう。
今を犠牲にしたって、何も未来のためになんてなっちゃいない。
どうせ未来を大切にすることができないのなら、せめて今だけでも大切にしてあげるのが、実は自分にとって一番いいのかもしれない、なんて思った。
実際、高校生の間はそうすることで、高校生活を非常に有意義で満足感のある思い出にすることができた。
ただその時がその時の自分の至福で満たされたし、今でも高校時代が現時点の人生で一番幸せだったって言える。
むしろ、まずは現在に命を費やすことで、将来の理想やそこへ向かうためのエネルギーを手に入れられるのかもしれない。
現状、余らせた電池は余ったまま。
電池なんて消費したって寝て充電すればいいじゃない。
今はもはや、使い捨て電池の時代でもない。
とはいえ、やっぱり捨て身で現在に振り切るのは怖いから、今も未来を気にするだけ気にしてるんだけどね。
高校時代までに『閃光少女』に出会っていたら。
自分の生き方が未来を不安定にしていることももっとちゃんと理解できていたかもしれない。
幾度となく周囲から受ける未来志向への誘導を前にしても、現在を大切にする生き方を認められたい心の拠り所にできていたかもしれない。
もっとも未来に対して、冷静に腰を据えて構えられていたかもしれない。
そんなことを、まだ未来のある大学生が、失望しながら考えて綴っている。
どうやら私は、高校と一緒に閃光少女も卒業してしまったみたい。