感情の賞味期限
新しい記事を書こう、とnoteの編集画面に向かうとき、時たま思うこと。
私のnoteの書き方と、ネタの扱い方について考えることをつらつらと書いてみる。
私には、高校時代から、日々感じたことや考えたことを忘れないように、メモ帳に書いておくという癖がある(iPhoneのメモ機能)。
当時は、文芸部と放送部にダブルで所属していたので、小説やら番組やらに、メモされたアイデアたちを昇華することができていた。
それが、部活を引退してから、作品を作ることはなくなった。
だけど、メモを取る癖だけは残ってしまったものだから、行き場のないアイデアたちがiPhoneのメモに溜まり続けて、メモ帳の肥やしになってしまった。
……というのが、私がnoteを始めたきっかけ。
私にとってnoteは、溜まり続けるメモ帳の肥やしを形に昇華する新しいプラットフォームであり、私の表現の新章。
一応、そういうコンセプトで、noteを書いている。
そんなものだから、新しく記事を書くときは、溜まりに溜まったメモたちと睨めっこして、なんとなく「これだな」と思うものを拾いあげる。
それでも、どうしてもタイピングが進まないことも多い。
それはひょっとしたら、感情の賞味期限が切れてしまったから?
なんて思う。
***
私がメモと取るとき。
それは、何かしら心が動いた体験。
そこにあるのは感情。
ただ、当たり前のことなんだけど、感情は永続的に続くものではない。
むしろ、瞬間的に高まることの方が多い。
情動と呼ぶべきかもしれない。
最近、気になってしまうこと。
メモを取ったそのとき、大きく心が動いていたとしても、後になってそのメモを見返すとき、当時の感情をどれくらい取り戻すことができているのだろうか、ということ。
前述の通り、私は一度メモ帳に蓄積されたものを後から取り出してnoteに書いている。
だけど、その感情はきっと、もう新鮮ではない。
私は昔冷凍庫に入れて放ったらかしにした感情で記事を作るシェフだ。
その解凍がなかなかうまくいかないとき、私のキーボードを打つ手は止まる。
どうしても、続きが書けなくなることがある。
言葉が浮かばなくなることがある。
私に文章力がないから。
あるいは語彙力や構成力が足りないから。
SNS慣れしていないから。
そんな風に思っていたこともあった。
だけど今では、そのメモをしたときと同じ熱量の感情を湧き起こすことができていないことが多いんじゃないかな、とも考える。
やっぱり、強い情動は、その時だけのもの。
どんなに感受性が豊かでも、メモを見て当時の状況を思い出しても、当時と同じ熱量の感情はどうしても湧かせないみたい。
ここはnote。
書き手の感情が、"文章化"という過程で希釈されて、読者に届く(noteは文章だけではないけれど)。
だから、書き手の持つ感情が新鮮であるほど、そして、感情から記事への変身がスムーズであるほど、強烈で精度の高い感情を届けることができる。
だけど私のやり方では、感情が生まれるフェーズと文章化というステップの間に、メモ帳の肥やし化と解凍作業が入ってしまう。
ただでさえ文章化で薄まってしまう感情が、その手前の段階でさらに弱くなってしまっている。
だから、やはり思いついたときに書いておくことって、大切なことなんだね、って今では思う。
***
とはいえ、メモ帳に取り残されているものたちを、見捨てるつもりにもなれない。
それぐらい、私は自分のメモを愛してしまった。
感情を伝えるためには賢い方法でないと分かっていても、私はメモ帳の肥やしの昇華を続ける。
余談
私のiPhoneで肥やされているメモ、文字数を計測してみると8000字近くあった。
ひとつひとつのメモはさほど詳しく書いてもいない、結構大雑把な箇条書きなのに。
当分ネタが尽きそうにはない。恐ろしや。