【子の読書】「読み解く力」以前に「読み〇〇力」を習慣で~文章のかたまりにひるまないってスゴイこと~(2)
【子どもと本】「読み解く力」以前に「読み〇〇力」を習慣で~文章のかたまりにひるまないってスゴイこと~(1)|涼原永美 (note.com)
・・・のつづきです。
9.言語感覚、リテラシーを「磨かないデメリット」の怖さ
「読み切る力」はあくまでひとつのスキルだから、なにも「年間〇百冊読む読書家」とか、極端な「本の虫」にならなくたっていい。
もちろん本好きになるのは素晴らしいことだけど、大切なのは「読書も気軽にできる」ということ。SNSもゲームも活用したり楽しんだりしながら、読書で得た知見をリテラシーやデジタルスキルに活かしていくのが理想かもしれない。
いま、学校現場でも情報活用能力の育成については手探りだというし、デジタル環境も日々変化していて一般ユーザーはついていくだけでも必死だが、確実にわかっていることがあると思う。
私達親世代が「本当に大切」と子どもに伝えなければらないこと・・・
それは、
「情報の真偽を見極める」「言葉(と相手)に対する想像力を磨く」、
そして
「自分の言動が引き起こすことへのシミュレーションをする」
――これができないことのデメリットだ。
こうした考え方や能力について、一般的には「できることのメリット」について語られることが多いが、それ以上に「できないことのデメリット」について真剣に考えたいと思う。
言い方を変えると、こうしたスキルを「持っている人の生きやすさ」よりも「持っていない人(若者)の生きづらさ」について、対価としてあまりにも大きな失敗がどんどん表に出てきていると感じるのだ。
他者を傷つけないことはもちろんだが、自分の人生を無暗に傷つけない、そういう知識とスキルを身につけなければ、あまりに危ういと思う。
たとえば、本――というカタチになっている情報源、書き手と責任の所在が明確な文章等が子ども時代から「情報収集と情緒の土台」になっていれば、「それ以外の不確かなもの」との違いを見分ける視点が育ちやすい。
たとえばネットの情報は「真偽が不確かなものもある」「文面の書き手には必ず目的があり、私欲のために誘い文句を書く場合もある」ことを、中高生になって授業で学ぶより前に、子ども時代から感覚として理解できていたほうがずっと早い。
子どもでも、ニュースや新聞を見れば世の中が「どういう方向へ動いているか」が少しでもわかるだろうし、本(文章)を読むことで語彙が増えると、ニュースの意味を吸収しやすくなる。土台が、まったく違ってくるのだ。
生成AIがこの先どれほど生活やビジネスに浸透しても、使いこなす側になるためには自分本体の思考力がものを言うし、文章を読める子には情報の真偽やリテラシーを教えやすいと思う。
10.「子どもが子どもの時代」を逃すと選書が難しくなるかも
読書習慣は子どもが10歳くらいまでに身に付いていれば理想かな、と個人的には思っている。具体的には小学4年生がひとつの目安だろうか。
なぜかというと、経験的に子どもは小学校高学年になると急に大人びてくるからだ。心も体も。
自分のことは自分で決めたい年ごろになるし、「親の言うことなんて(素直には)聞きたくない」と思い始める(親子関係にもよるけど)。そうなってから「本でも読みなさい」と言っても、これがなかなか難しい。
また、もうひとつの理由として「初めて真剣に読書に取り組む年齢」が上がるほど、選書のハードルも上がる可能性がある。
たとえばあまり読書をしないまま高学年になるとする。周囲で読書好きの友達がいれば、その子はもう一般的な小説を読んでいるかもしれない。
そうなるといざ一冊選ぼうとなった時、実際的な読書スキルに合わせると児童書のようなものになりかねない・・・が、それでは内容も見た目も子どもっぽくて満足感が得られない。
もちろん実際は一般的な小説にも読みやすいものは多いので、人に相談したり、調べたりすればぴったりの本はあるだろうが、選書にそこまで労力をかけられるだろうか?・・・という問題がある。本来、読書は気軽なものだし、そうでなければ続かない。
ましてや高学年になると勉強や習い事が忙しく、ゆっくり過ごす時間そのものがなくなる子も増えそうだ。スマホに夢中になり始めると、読書という選択肢はますます遠のいてしまう。
こんな言い方はベストではないかもしれないが、親としては「子どもが子どもらしいうちに」一緒に選書をして、楽しく読む習慣をつけるのがいちばんラクかもしれない。
11.親子で書店に行った時、いちばん残念な行動は・・・
ーーとある週末、大型書店の児童書コーナーで小学5年生くらいかなと思われる女の子と母親が、本棚の前で迷っている様子を見かけた。
「高学年向け」のカテゴリーから一冊を手に取っては、数ページめくり首をひねって棚に戻す女の子。
「どれがいいの?」「わかんない・・・」という会話を繰り返し、見かねた母親が〈ベストセラー〉とポップの貼られた一冊を手渡して「これはどう?」と聞くと、女の子は数ページ目を通して「ダメ・・・すごく難しそう」とまた本棚へ戻してしまった。
結局、その母娘はどの本も持たずに児童書コーナーから立ち去ってしまったのだ。ああ、もったいない・・・と他人事ながら悲しくなった。何か一冊に出会えたら良かったのに・・・。余計なお世話でごめんなさい。
ーーでも、じつはこうした光景はここ数年、書店で何度か見かけている。
子どもは低学年のこともあれば高学年のこともある。親子で何かしらの選書に来たのだろうが、「こんなにたくさんあるの?」と困っている様子だったりする。
親は、お金を払うのだから「何でもいい」というわけにはいかない。
子どもは自分にとってどんな本がおもしろいのかがわからない。
膨大な冊数を前にして「これ!」とピンとくるものを見つけるには、子どもなりの経験ーーあれを読んだらおもしろかったという成功体験ーーが必要なのだ(お金をかけずに選書スキルを磨くなら、図書館を利用する方法もある)。
12.その本を読み切れないのは「内容が難しいから」じゃない
書店で女の子が数ページめくって戻した本はわりと有名な児童書で、決して難しい内容ではない。
集中すれば5年生くらいの平均的な学力で理解し、読み切ることができる物語だ。難しいから読めないのではなく、「こんなページ数を読み切った経験がない」から無理だと感じたのではないか。
読み始めたらもしかして5ページ目、10ページ目には「この先どうなるの?」と思えたかもしれない。・・・いや、たとえ少し難しく感じたとしても、読書にあてる時間があるのなら、今読んでみてほしかった。
二度と戻らない子どもの時間に、読書をしてみてほしい。
読み解かなくていい。読み切るだけでいい。
「読み切る」経験を重ねると、本一冊を前に「これなら〇日くらいで読めるかな・・・」という自分なりのイメージが湧くようになる。
読書も成功体験の繰り返しだ。「読んでみた、おもしろかった」という成功体験があるから「次の本」に手が伸びる。
マラソンだっていきなりフルにチャレンジする人はいない。5km、10 kmを完走したうえで、自分の走力と相談して距離を伸ばしていく。
読書の場合なら、その時々の読む力に合った本を読み切る経験を重ねていない子に、いきなり300ページとか500ページの小説を「読んでみて」というのは厳しい課題だ。読み切るだけでも未経験の重労働に思えるのに、さらには「読み解け」と求められるのはキツイ(さらに感想文を書け、は試練だ)。
また、本を選べなかった経験を繰り返すと、「自分は本が苦手」という意識にもつながってしまう。それは「ひとりでも多くの子どもに本好きになってほしい」と願う人間としては、残念でたまらない・・・。
13.義務教育の国語だけでは「本好き」が生まれづらいと思う理由
たとえば小説一冊を読み切るのは、読みなれた人間でもけっこう頭を使う。
「言葉だけで綴られている場面や展開を、自分の想像力で補いながら」読み進めるわけだし、少し難しい文章は繰り返し読んでみる。
文章だけで描かれる世界を自分の頭に構築するのだから、一冊の長編小説を読み終えるということは、書き手と読み手の共同作業でひとつの世界を構築し終わる・・・ということかもしれない。
小説に限らないが、読書の頭の使い方は「つまりどういうことだろう?」と自分で考えることの習慣付けになるし、一冊を読み切ることを繰り返せば、一定期間ひとつの物事に関わることや「すぐに結論が出ない」ことにも慣れていく。これは、ショート動画がいちばんの娯楽になっている子にとって、もしかしたら足りない部分かもしれない(・・・手っ取り早いものには、なんでも注意が必要だ)。
読書で得られるこの頭の使い方はけっこう独特で、このスキルがなくても日常生活にさほど支障はない。一見して誰がこのスキルを持っているのか、いないのか、わかりづらいのだと思う。
だから現代になって急に(?)「子どもの読解力が下がっている!」と問題になっているのだろう。国際的な数値としても出てきてしまっているわけだし。
「文章を読む力」や「読書を楽しいと感じる心」は、義務教育の国語の授業を受けたからといって誰でも身に付くものではないと思う。身に付くのなら、教育として十分なら、もっと読書好きな子どもが増えているはずだ(国語の授業を否定しているわけではありません。あくまで多くの子どもが読書に自然と慣れるためのシステムの話をしています。念のため)。
大人が少し恥ずかしそうに「自分はあまり本を読まないので・・・」と話すのをたまに見ることがあるが、あれは「読書しないのは知的好奇心が高くないから」という後ろめたさが背景にあるからではないだろうか。
でも、私はそうじゃないと思う。読書を気軽にできるかどうかは、子ども時代に「慣れる環境にあったか」にほぼかかっている。どうか、興味があったら今からでも読んでみてほしいと思うのだ。
14.スキじゃなくても九九みたいに基礎力として「読む力」があったなら
小学校で「国語」と並行して「読書」の時間があったらな・・・と思うことがある。
「読書」を教科として取り入れたら、「勉強として強制するのはおかしいのでは」という意見も出そうだが、「読書不足」「読解力不足」が国として問題になっているのなら、教育として力を入れるのもひとつの方法かもしれない。
だって掛け算の九九は、ほぼ強制的に暗記させるじゃないか。――あれは覚えなければその後の算数・数学がまったく進まないので、読む力と一概に比べられないのはわかるが、小学2年生にとっては「とりあえず覚えなきゃいけないこと」であり、「絶対に必要なものだった」と実感するのはあとのことだ。
好む好まざるに関わらず、子ども時代に身に付けておいた基礎力が人生全体に影響を与えることは、時としてあるものだ。
「ほら、子どものころ授業で読書の時間があったでしょ? 最初は嫌だったんだけど、読んでるうちに大好きな本と出会って、それがきっかけで読書人生が始まったんだよね・・・」という大人が増えたら、結果的に本好きの裾野がぐんと広がるだろう。そうしたら書店も安泰だ。ーーそんな夢を抱いてしまう。
15.文章のかたまりにひるまないって、すごく楽しいこと
話が少しそれたけど、「読む力」「読み切る力」があると人生に「とりあえず読んでみる」選択肢が生まれる。
するとその人にとって図書館や書店の本は「全部読める可能性」のあるものとして映る。急に門が開かれ、縁遠い場所ではなくなる。
そう、どんな本だって読めるのだ(私の場合日本語なら)。
「おもしろい」と言われる小説も、「役に立つ」と評判の実用書も。気軽に自分のものにできる。――これはものすごく楽しい。
けれど「読む」を重ねていない人にとって読書は未知のものであり、大量の本を目の前にしてひるんでしまう。――これはもったいない。
「読む」「読まない」は自由、「何を読むか」も自由だが、「読むこと自体に慣れていない」のは、すごくもったいない。
本好きな人間は、世の中のおもしろい本を読み切るには一生かけても時間が足りないと知っているーーだから逆に、退屈を感じることがない。暇な時間なんてない。とてもとても、幸福なことだと思う。物じゃなく、感じる心があることの幸福だ。
ーー文章のかたまりにひるまないって、すごいことだと思う。
自分から文章に会いに行き、ワクワクしたり、感動したり、学んだりできるのだ。「読書家だね」と人に言われるのがすごいんじゃない。自分自身が、読むってすごいことだと知っている。それが「読み切る」を積み重ねたことのご褒美だと思う。
良い成績を収めるために難しい文章を読んだり、読解力を磨くのも大切だけど、それ以前に子ども達には「まず読み切る」習慣を重ねてほしいし、本を読んでワクワクしてほしいと今日も願うのだ。
(おわり)
・書店で「買う本選び」のポイントは・・・ご参考までに
・図書館利用で子どもの読書傾向を探る方法は・・・ご参考までに
・我が家の体験・・・ご参考までに