#人生
僕が先生をやめたわけ。
「絶対まだたまごの強みを
活かせる場所、あると思うんよな。」現場2年目の僕に、
ベテランの先生が言ってくれた言葉。
僕が「先生」を意識し始めたのは
小学校6年生のころ。
担任の先生のユーモア溢れる学級が
大好きだった。
恵まれていたと思う。
中学。
ペンで机を叩いてリズムをとる英語の先生。
高校。
発掘してきた土器について熱く語る先生。
大学。
チョムスキー愛を炸裂させる先生。
いろいろな
例えるなら、法隆寺。
柿食へば、鐘が鳴る。
あの、法隆寺。
幾多の地震に耐え、現存する
世界最古の木造建築。
五重の塔を貫く心柱はどっしり構え、
悠久の刻の趣を漂わせている。
まるで、一度の焼失もしなかったかのような
涼しげな面持ちで。
シェアするということ、
共有。
それはあくまでどちらかに偏っていくもので。
合鍵に元鍵があるように、
包丁にも主導権があるわけで。
相対的なのだろう。
朝のお風呂が僕なのも、
夜の掃除がきみなのも。
あるときはこちら、
あるときはそちら。
だからこそ、心地いい。
曖昧な気遣いよりも、
ちょうどいい切り取り線が。
近くて遠い、
遠くて近い。
「どこからでも切れます」は
「どこからでも切れない」
「誰が悪いというわけではない」と言われる時点ですべてが窒息している。
それはまるで、
ただひたすら1本の登山道を行くが如く。
脇目も振らずに行く先は
呼吸を奪う高台で、
いただく前に、いただかれ。
きっと、みんな、夢がある。
道を選ぶとは、つまりはそういうことで。
何かを目指すから踏み出すわけで。
けれども、道は険しくて。
1人、1人と「オモイ」を捨てる。
「オモイ」は後ろに配られて、
歩みに痛みが増してゆく。
職場が澱み、濁り行き、
沈んだオモイが闇と