入祭唱 "Quasi modo geniti infantes" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ35)
GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEX p. 216; GRADUALE NOVUM I, p. 189.
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更新履歴
2023年4月14日
「テキスト,全体訳,元テキストとの比較」の部のうち,元テキストとの比較の部分を書き改めた上,長いので独立させて小見出しをつけた。ほかにも細かい修正・改善を行なった。
2019年4月29日 (日本時間30日)
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【教会の典礼における使用機会】
昔も今も,復活節第2主日に歌われる。
ただし,先の典礼改革 (1969年から順次導入された) より前の暦では,この主日は「復活祭の第八日の主日 (Dominica in Octava Paschae)」あるいは「白衣の主日 (Dominica in Albis)」と呼ばれる。
この「白衣の主日」という呼び方は,昔行われていたある慣わしに基づくものである。
「白衣の主日」という名称だけ見ると白い衣を着る日のような印象を受けるが,実際は逆で,これは白い衣を着るのをやめる日である。着るのをやめるというからにはそれまで着ていたわけだが,いつからそうしていたのかというと,その年の復活祭からである。誰がそうしていたのかというと,復活徹夜祭で洗礼を受けて新しく教会に加わった人々である。彼らは洗礼のときに白い衣を授かり,それを次の土曜までは常に着用して教会に現れた。白い衣が新受洗者のしるしとなっていたわけである。それを着るのをやめ,ほかの人々と同じように普通の服装で彼らが教会に来る最初の日が復活節第2主日で,これは彼らが完全に教会の一員となったことを示していた。(参考:Volksmissale, p. 488 T。)
ともかく,そういうことに基づいてこの主日に「白衣の主日」という名がついていること自体,この日の重要なテーマの一つが新受洗者であることを予感させるものである。果たして,今回読む入祭唱のテキストはまさしくそのような内容を持っている。
【テキストと全体訳】
Quasi modo geniti infantes, alleluia: rationabiles, sine dolo lac concupiscite, alleluia, alleluia, alleluia.
Ps. Exsultate Deo adiutori nostro: iubilate Deo Iacob.
【アンティフォナ】たった今生まれた幼子たちのように,ハレルヤ,理性ある者たちよ,悪だくみなしに乳 (ミルク) を求めなさい,ハレルヤ,ハレルヤ,ハレルヤ。
【詩篇唱】喜び躍れ,私たちの助け手である神に。歓呼せよ,ヤコブの神に。
入祭唱だろうが拝領唱だろうが聖母マリアのアンティフォナだろうがとにかく何でも「ハレルヤ (アレルヤ)」がつくのは,復活節の特徴である。ここでも見られるように,文の途中でもかまわず「ハレルヤ」が入りこんでくる。
四旬節の典礼には「ハレルヤ」が一切現れないのだが,これは復活祭と復活節に特別な喜びをもってこれを歌うためであるともいえる。量的には,四旬節に歌うのを我慢した分よりずっと多くの「ハレルヤ」が復活節に現れる。喜びが悲しみより,生命が死より最終的に強いことを象徴するかのようでもある。
【元テキストとの比較】
【アンティフォナ:全般】
アンティフォナの出典はペトロの第一の手紙第2章第2節である。Vulgataのテキストは ("alleluia" がないことを抜きにしても) 若干異なっており,次の通りである。
まず "quasi" が "sicut" になっているが,これはどちらでもまあ同じ意味である。そしていずれも2音節の語であるため,歌い方もそう大きくは違わないだろう。つまり,"sicut" を "quasi" にわざわざ換える必要が特に感じられず (2023年4月14日追記:いや,母音の明るさの問題があるので,そう言ってしまうのは早計かもしれない),したがってこの入祭唱のもとになっているのがそもそもVulgataではなくそれ以前の何らかのラテン語訳聖書テキスト (Vetus Latina) なのだろうと思う。
というわけでVetus Latinaを調べてみると,
というのが見つかった。"rationales" というところだけ入祭唱アンティフォナと異なるが,註を見ると,これもテキスト伝承によっては "rationabiles" となっているようなので (ただ,私は今のところこの註の見方がもうひとつ分かっていないということを断っておく),ほぼ完全一致といってもよさそうである。この「メリトーンの鍵」は7~8世紀に作られたとされる聖書釈義のための用語集で,用語の説明のためにさまざまなテキストを引用している書物である。するとこの引用元自体が入祭唱アンティフォナなのではという疑いが生じるが,"ut in eo crescatis" というアンティフォナに含まれない語句が入っていることから,そうではないと考えてよいだろう。
なお,「メリトーンの鍵」にはこのテキストを引用しているところがもう1か所あり (第10章第7節,Pitra上掲書p. 111。ちなみに "Quasi modo geniti infantes" の4語だけ引用しているところならさらにあと1つある),そちらでは "rationa(bi)les" が "rationabile" となっている。
【アンティフォナ:"rationabiles" か "rationabile" か】
この "rationabiles/rationabile" のゆれは「メリトーンの鍵」内だけでなく,聖歌書・典礼書にも見られる。GRADUALE ROMANUM/TRIPLEXやNOVUMでは "rationabiles" (男性・複数・呼格) だが,2002年版ミサ典書では "rationabile" (中性・単数・対格,あるいは名詞でなく副詞。後述) だし,9~10世紀の聖歌書でもLaon 239など少なからぬものが "rationabile" としているのである。
たった1字の違いだが,次のようにはっきりと意味が変わるので無視するわけにはゆかない。
"rationabiles" であれば,「理性ある者たちよ」という呼びかけである (文法上は "infantes" にかかっているということも考えられるが,意味・文脈上無理があり,また入祭唱アンティフォナにおいて間に "alleluia" が挿入されていることからこの可能性はないだろう)。
"rationabile" の場合,2通りの解釈が考えられる。
"rationabile" の性・数・格からしてこれは中性・単数・対格の名詞 "lac (乳 [ミルク])" にかかっているとみることができるので,「理性的な (霊的な) 乳を悪だくみなしに求めなさい」ととるという解釈。
"rationabile" が副詞でもありうる形であることに基づき,「理性的に (理に適ったしかたで,ふさわしく) 乳を悪だくみなしに求めなさい」ととる解釈。
出典であるペトロの第一の手紙のギリシャ語原典にさかのぼると,ここは "λογικóν" (logikón) となっており,これは単数ではありうる (そして "rationabile" 同様に中性・単数・対格でありうる) が複数ではありえない形なので,これの訳語としての正しさにおいては "rationabile" に軍配が上がることになる (「乳」はギリシャ語 [γᾰ́λᾰ] でも中性名詞である)。ギリシャ語原典自体に異読がある可能性についてだが,Nestle-Aland第28版を見る限りでは,少なくとも今残っている写本でここが複数形になっているものはないようである。もしかすると,"rationabiles" と訳された時代にはまだそういう新約聖書のギリシャ語テキスト伝承があったのだろうか。
なお,以上のような文法的なこととは別に,この形容詞 "rationabilis" (>rationabiles, rationabile) の意味をどう考えればよいか (「理性的な乳」ではあまりにも奇妙かつ意味不明である) については逐語訳のところで考えたいと思うので,そちらをごらんいただきたい。
【詩篇唱】
詩篇唱に用いられているのは詩篇第80篇 (ヘブライ語聖書では第81篇) であり,GRADUALE ROMANUM/TRIPLEX/NOVUMに載っているのはその第2節 (実質的な最初の節) である。テキストはローマ詩篇書にもVulgata=ガリア詩篇書にも完全に一致している (「ローマ詩篇書」「Vulgata=ガリア詩篇書」とは何であるかについてはこちら)。
【対訳】
【アンティフォナ】
Quasi modo geniti infantes, alleluia:
たった今生まれた幼子たちのように,ハレルヤ,
「ハレルヤ」が現れているが,文はまだ終わっておらず,次に続けて読む必要がある。
キリスト教では洗礼を受けることを第二の誕生とも呼ぶ。この意味で,その年の復活祭に受洗した人々は,それから1週間後のこの主日ではまだ「たった今生まれた」状態である。
rationabiles, sine dolo lac concupiscite, alleluia, alleluia, alleluia.
理性ある者たちよ,悪だくみなしに乳 (ミルク) を求めなさい,ハレルヤ,ハレルヤ,ハレルヤ。
「理性ある者たち」は,すぐ前に出ている「たった今生まれた幼子たち」と対になるものとして,単に大人たちを指している言葉ととることも一応できるだろう。幼児洗礼は生後まもなく行うことが多いが,成人洗礼は原則として復活祭にまとめて行われる。というわけで伝統的に,新受洗者の教育期間という役割・性格が復活節には与えられてきた。そういうわけで「乳 (ミルク) を求めなさい」とは,信仰上の教え・霊的な栄養を豊かに吸収せよということだと考えられる。
すると "sine dolo (悪だくみなしに)" というのは (それこそ幼子のように) 素直に教えを聴いて受け入れなさいという意味になるのだろうが,そう考えると「理性ある者たち」という言葉が別の意味合いを帯びてきもする。というのも,この主日に読まれる福音書は昔も今も「トマスの不信」の箇所なのである。次にその箇所を引用する。第1文の「イエスが来られたとき」というのは,復活の日の夕方,トマス以外の弟子たちが集まっているところにイエスが現れたことを指している。
ただ個人的には,このような解釈でゆくと理性を否定する・自分の頭で考えることを嫌う方向に行ってしまいかねず,それは好ましいと思わないので,あまりこう考えたくない (ちなみに,今年 [2019年] 私が聴いたミサ説教でも,トマスの疑いが肯定的にとらえられていた)。だいいち,キリスト教はもともと決して理性否定の宗教ではない。むしろ逆に,キリスト教神学においていかに徹底的に理性が用いられるかということ,そしてそれは理性を超えたものを認めることと矛盾しない (ばかりか,理性を超えたものからの問いかけに応えようとすることによってこそ理性はさらに成長する) ということは,昨年出て高い評価を受けている山本芳久氏の『トマス・アクィナス 理性と神秘』(岩波新書) を読めばよく感じられる。古代の聖人にも,長年にわたって当時のさまざまな哲学に触れてよく考えた末にキリスト教を選ぶという道をたどった人がいる (ユスティノス)。
【詩篇唱】
Exsultate Deo adiutori nostro:
喜び躍れ,私たちの助け手である神に。
iubilate Deo Iacob.
歓呼せよ,ヤコブの神に。
「ヤコブ」は「イスラエル」の別名 (というよりもとの名。創世記第32章第29節を参照)。もともと個人名だが,「イスラエル」が神の民の名ともなったことで「ヤコブ」もその意味で用いられることがある。
【逐語訳】
【アンティフォナ】
quasi (あたかも) ~のように
modo たったいま
geniti 産まれた (動詞gigno, gignereをもとにした完了受動分詞,男性・複数・主格)
infantes (<infans) (まだ) 言葉を話せない者たち,ごく幼い者たち
もともと「口をきかない」「まだ言葉を話せない」という意味の形容詞であるinfansが名詞として用いられ,そのような人間すなわちごく幼い子どもを意味するようになったもの。
ちなみに,さらにそのもとをたどると,動詞for, fari「話す」の現在能動分詞fansに否定の接頭辞inがついたものである。
alleluia ハレルヤ
rationabiles 理性ある者たちよ
これも形容詞 "rationabilis" を名詞として用い,そのような人間を指しているもの。ここでは男性・複数・呼格の形をとっている (主格や対格でもありうる形だが,文脈上呼格ととる)。
形容詞 "rationabilis" は名詞"ratio"「理性」から派生した語であり,「理性に恵まれた」「理性に則った」といった意味が手元の辞書には載っている。転じて「ふさわしい」「受け入れることができる (承諾できる)」といった意味にもなるようである。
この "ratio" という語はもとは「計算」などという意味の語で,ラテン語の「理性」は「数」と関係があることを窺わせる。
だが,もとの聖書箇所のギリシャ語原典に出ている形容詞λογικός (logikós) (>λογικóν [logikón]) のほうは名詞λόγος (lógos) に基づいており,これにも「計算」や「比」といった「数」に関する意味もあるにはあるようだが,しかしこれは (辞書にずらりと並んでいるいろいろな訳語を見る限り) まずは「言葉」である (まあ,もしかするとこのように「数」と「言葉」を二項対立で考えること自体,本来適切でないのかもしれない。数はいわば自然科学的に世界を記述するための言語であるということを思えば,科学と哲学を分けて考えていなかった古代ギリシャ人たちにとっては,数も言葉も世界の理を探究し記述するための一つのものだったのかもしれない。しかし今はこのあたりに深入りする機会ではないし,かりにそういう機会だとしても私の手に余るテーマである。ここまでの分も既に背伸びして書いている)。
そういうわけで,ギリシャ語までさかのぼって考えることを敢えてするならば (私は原則としてはあまりそういうことはせず,ラテン語はラテン語として理解する方針なのだが),この "rationabiles" に「言葉を使える者たちよ」という含みを持たせることもできるかもしれない。上で述べたように,これと対になっている "infantes" (<infans) がもともと「(まだ) 言葉を話せない者たち」という意味であることも,このような読み方の支えとなりうる。
しかし,このように「言葉」という要素を前面に出す読み方は,テキストが "rationabiles" でなく "rationabile" であると考える場合 (この件に関しては「テキスト・全体訳・元テキストとの比較」の部を参照) にこそ特に有効であると思う。上述のように,この場合 "rationabile" は後の "lac (乳 [ミルク] を)" にかかる語だと考えうる。「理性的な乳を」ではよく分からないが,「言葉の乳を」ならば,新受洗者の教育という背景を念頭に置けば分かる。教理教育や典礼で読まれる聖書や説教などによって言葉の栄養を豊かに受けて,キリスト者としてすくすくと育ちなさい,ということだと考えることができるのである。
さらに,上で言及したギリシャ語λόγος (lógos) がヨハネによる福音書の有名な冒頭「初めに言があった」の「言」の原語であること,この「言」がイエス・キリストのことであることを考え合わせるならば,単に「理性」によって言葉を受け入れてゆくだけでなく,それを超えた「神秘」の領域までも含めて,神が次第に開示してくださるものを受け取って成長してゆきなさい,というような意味だとまでも考えられなくはない,かもしれない。
この文脈で出す話として十分に適切かどうか分からないが,先日 "Oculi mei" の記事でも話題にした内村鑑三の恩師シーリー先生は,永遠の生命の信仰について疑問を持った内村から質問を受けたとき,一人の女性の写真を指差して「内村君,これは私の妻です。今は天にあって私の来るのを待っております」とだけ言った。内村は後年それを振り返り,「これほど明らかな永遠の生命の証明を聞いたことはありませんでした」と言っている。論理的な話とは全く違うが,神秘に属することの認識というのは,このように人生における経験そのものを通してもたらされる部分があるのかもしれない。ともかく,そのような面も含めた意味での認識を深めてゆきなさい,というのが "rationabile [...] lac" を求めよということではないかというのが,(かなりの牽強付会を伴うと思われる) 私の読みである。「言」たるイエス・キリストも,教えを説くだけでなく彼の人生そのものをもって語ったのだし。
sine ~なしに (英:without)
dolo (<dolus) 悪い意志,計略,欺き (奪格)
lac 乳 (ミルク) を
concupiscite 欲せよ,望め,求めよ (動詞concupisco, concupiscereの命令法・能動態・現在時制・2人称・複数の形)
alleluia, alleluia, alleluia ハレルヤ,ハレルヤ,ハレルヤ
【詩篇唱】
exsultate 跳び上がれ,喜べ (動詞exsulto, exsultareの命令法・能動態・現在時制・2人称・複数の形)
Deo 神に
adiutori nostro 私たちの助け手に (adiutori:助け手に,nostro:私たちの)
直前の "Deo" と同格 (与格)。
iubilate 歓呼せよ (動詞iubilo, iubilareの命令法・能動態・現在時制・2人称・複数の形)
Deo Iacob ヤコブの神に (Deo:神に,Iacob:ヤコブの)
"Iacob" は格変化しない。
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