私的幸福論
「しあわせ」はやってくるものではなく、「しあわせだ〜」と言うから「しあわせ」になるんだと思う。
これが私が考える幸福論です。
こんにちは。編集とデザイナー夫婦の妻のほうです。
しあわせってなんだろな
幸福論は、思考をする動物・人間である以上、おそらく誰しも一度は考えたことがあるものではないかと思います。
そして「しあわせとは何か」に対しての答えは、無数にあることもあれば、ひとつの場合もある。
何か特定の宗教を信じている方ならば、「こうしたらしあわせ」という方法や道筋を知っているのかもしれません。私は特定の宗教はありませんが、宗教と幸福論はとても近い存在なのかな、と想像したりもします。
心が弱っているときこそ、何かを信じたくなりますしね。
ちなみにいま私は年末が差し迫ってきたこともあり、仕事の忙しさや自分ではどうにもならないことによる焦りなどで、たぶん若干、心が弱っています。
だからこんなテーマを書こうと思ったんだな……きっとそうだな……
しあわせではない、と思うのはこんなとき
「これを信じれば」「これをやれば」「こう考えればしあわせ」という答えはわかりませんが、それでも私なりには「どうしたらしあわせではない」というのはあります。
それはこんなときです。
1️⃣ 誰かのせいにしたとき
人ではなく、モノでも、社会や政治、思想でも。
2️⃣ 誰かに委ねたとき
本心はどっちでもいいときに多い。自分ではなく人の判断に従うなど。
3️⃣ 誰かに合わせるとき
和を乱さないことを是としすぎて「出る杭」にはなれないときなど。
この「誰か」が主語に来るシチュエーション、とくに日本では多いのかもしれません。
そして私は、「誰か」を主語にしたら大抵後悔している気がしています。
1️⃣ 誰かのせいにしたとき
ままならないことがあるとき、どうしても原因や悪者・理由を探すことはあります。しかし世の中にはどうしたって、理由が見つからなくても起こってしまう「不幸なこと」があるように思います。
原因を探したり、次同じことが起きないように先回りすることも大事ですが、完璧には無理です。自分だけがすべての事象や人間の感情をコントロールしているわけではないから。
いろんな考え方、いろんな正解、いろんな人間の中のたかが1人の私が影響できる領域。そんな小さな領域と領域が混ざり合っているのが社会なのかな、と思います。
だからこそ「誰か(何か)」のせいにしても、あるいは「これが原因だ」と正論を突きつけても、大抵の物事は解決しないのだと思います。どんなに正しくたって「そうは思わない」という人が1人でもいるなら、「そう」はならないのだから。
そして満場一致の答えなんて、この世のどこにもない。
みんなが同じ方向を向くことは、「ままならないこと」を無くせる美しいもののようでいて、自国のためなら人を殺すのも正義という戦争にまで発展してしまう、恐ろしい可能性も秘めている。これにひとたび気づくと、本当に怖いです。
私は、自分でできること・考えられること・変えられることはできるところまでは努力しますが、それでも実らないとき、なるべく「誰か(何か)のせいにしない」ように心がけたいです。
「そんなこともある」くらいに押しとどめないと、自分を正当化することに躍起になって、でもままならなくて、いつも何かに怒ってしまいそう。
そんな自分はとても「ふしあわせだな」と思います。
とは言え、やっぱり悔しいとき・悲しいときは、何かのせいにしたくなりますけどね……。「なるべく」誰かや何かのせいにしない、くらいのマインドです。
2️⃣ 誰かに委ねたとき
これは一見「優しさ」として表れることもあります。
でも、「優しさ」と「面倒くささ」を履き違えるとき、ありませんか?
私はけっこうあります。
ただただ考えるのが面倒くさいとき、思考停止して「なんにでも合わせられる自分」を演じてしまうことがあります。
こんなときは大抵、後悔してしまうのは私だけでしょうか?
事なきを得たときは気づかないのですが、もしひとたび「ままならないこと」が起きると、やっぱり「あのとき」の「誰か」のせいにしたくなるものです。
そしてそれは結局、その「誰か」に委ねた「自分」のせいだったりします。
たぶんこの場合は、思考停止して「優しい柔軟な自分」を演じてしまうのが問題です。
結果として相手に委ねることになったとしても、自分はどう考えているのかは一度考えてもいいはずで、さらにはそれを共有したって、相手に対する思いやりがあるならいつだって「優しさ」には繋がる。
でもその経緯を割愛して相手にすぐ委ねるのは、相手にも自分にもぜんぜん優しくなく「ふしあわせな結果になる」場合もあるなと思うのです。
だから「誰かに委たくなっている」ときは、私的に要注意。ただ面倒くささが勝っているだけではないか、ええカッコしい自分になっていないか、振り返るようにしたいです。
3️⃣ 誰かに合わせるとき
2️⃣ 誰かに委ねたとき と似ていますが、これはすでに物事が進んでいる状況で、明らかに自分だけが違う意見を持っているときに気をつけたいことです。
「和を乱すことが良くないこと」とされる日本では往々にしてあるシチュエーション。もちろん和を乱せ、とは思いません。
しかし「皆が良しとしていても、納得できない」ということは多かれ少なかれあると思います。
そこにおいても思考停止して、自分の気持ちや考えを自分で無視したり、我慢し過ぎるのは、これまた「ふしあわせだな」と感じることが私は多いようです。
我慢や無理がたたって体を壊すこともあります。
人に合わせ過ぎるのは、たぶん毒です。
和を乱すのではなく、出る杭になるのでもなく。
意見を共有し、話す、議論をする。そんなワンクッションがあってから、違う方向に行くも良し。もしくは、結果「誰かに合わせ」たとしても遅くはないのかもしれません。
でも、そんなにできた人間ではないので
上記の3つは、私が「しあわせではないな」と感じるときに振り返ると自分が取っていた行動や思考パターンであり、自分に対する心がけや戒めのようなものです。
しかし当然、そんな哲学してる思考をいつも実行できているわけではありません。大抵は考えるよりも先に口が出てしまうので悩みもしますし、あれがいけなかったかな? と考えることも多々あります。
ただ、「誰か」ではなく「自分」軸で思考することを心がけて続けると、後悔することは少なくなった気がしています。
嫌なことは外から・思いがけないところから・他人から与えられると思っているといつまでも受け入れられませんが、自分の責任で一つひとつの自分の行動を決めると、結果が良かろうと悪かろうと、圧倒的に状況を受け入れやすくなったのは事実です。
いちいち自分の行動を振り返ったり、選択したり、「はっ、これはあのパターン!!」などと考えたりするのは、正直疲れますけどね……。
そしてそんな風に思考することに慣れてくると、(かなり飛躍しますが)「しあわせだな〜」と自覚することにも慣れてくるから不思議です。
そんな研究分野があると聞いたことがあります。これの真意はここで問いませんが、
「思う」「行動する」→だから「本当にそうなる」
という図式は、少なからずあると思っています。
自分で思ったことは、良くも悪くもだいたい思った通りに実現する。
だから小さなことでも「しあわせだな〜」とつぶやいてみると、本当にしあわせな気分になってくる。
「言霊」という言葉があるくらいなので、きっと古くから身をもって体感してきた理りのようなものなんでしょうね。
結局なんだか宗教めいてしまいましたが、何かを布教したいわけではなく、
これが私が考える幸福論。
そんなお話でした。
sassaさん、素敵なイラストを使わせていただきありがとうございました!
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