絶望がいっぱい
いろんな事情があり夫と離婚して子どもと二人暮らしになった母親。
なんの保証もなくこれからも死ぬまで仕事してギリギリの生活をしていく前期高齢者。
問題を抱える家族と一緒に住んでいて、困窮しながらも改善方法が見つからず毎日を過ごしている人。
水害から再起を図るも再び災害が訪れ、努力も水の泡となった経営者。
建てたばかりの家が地震で倒壊し、多額の借金を抱えてしまった人。
幼い頃から描いた夢に向かってたくさんの挑戦をしたけれど、叶わないまま人生を送る人。
好きな人と付き合っているのに、相手から自分を思う言葉も行動もなくただ毎日を過ごすだけの人。
…世の中にいるさまざまな人の背景を想像しただけで、きっと絶望の淵にいる人は多いと感じる。
自分もそう。どうしようもないくらい絶望に襲われることがある。ゆうべが特にそうだった。
ただ、人はそれでも絶望を抱えながら生きている。なぜだろう?
大なり小なり、折り合いをつけているからかな、と思う。
それにもいろんな方法がある。
どうにか突破口を見つけ、絶望を少しの希望に変えていく方法。
ただただ時間が過ぎるのを待つ方法。
他のことに意識をそらす方法。
どれがいいとか悪いとかではなく、その人が今できる方法だ。
そして「絶望」の中に生きているだろうそれぞれの人の秘められた「強さ」に想いを馳せる。
まあまあの絶望に、一人で糸口をつかもうとしていたある時、他方から陽が差してくることもある。
苦の裏にある楽。苦の裏にある光。苦の裏にある知恵。
みんな持っているものだから。
高校1年の時、担任のF先生から、哲学者たちの名言を集めたプリントが配られ、一人ひとりの思想について説いていただいた。
汝の意志の格律が常に普遍的立法の原理として妥当するよう行為せよ
その中でもカント倫理学の定言命法は頭から離れず、何日かかけてその意味をかみ砕いた。その時の雷に打たれたような衝撃といったら…!
以来、哲学が学べる大学を自分で探して進学。真理をつかみたかった。
学問としては難しすぎて、何かを成し遂げることはできなかったけれど、いまだに一人で考えるクセは抜けない。
わたしは、数々の絶望的な場面にいながらも、まだしぶとく生きていられるのは、この頃の体験も生きているのかもしれない、と思った。
よみかき室の活動を通して、満たされた世界の影に隠れて見えない人のドアを叩きたい。苦しみながらも楽しさや明るさ、学びを一緒に見つけて広げていきたい。