読書記録:時々ボソッとロシア語でデレる隣のアーリャさん6 (角川スニーカー文庫) 著 燦々SUN
【陰謀渦巻く晴れ舞台で、君を輝く瞬間に連れ出す為に】
生徒会の威信を懸けた秋嶺祭で、何者かの妨害工作が行われ、アーリャの信頼の為に政近は原因究明に奔走する物語。
裕福な家に産まれたとしても、けして幸せになるとは限らない。
自らの意志を歪められたり、大人達の都合で人生を縛られたり、衣食住が満ち足りた生活の中でも、独特のしがらみや息苦しさを感じてしまう。
本当は、生い立ちも境遇も関係がなく、自分として産まれたならば、自分の好きなように人生を使っていいはずである。
たとえ、親であっても、子供の人生に自らの思惑を投影させる権利がある訳ではない。
そんな風に依存しきった関係ではいつまで経っても、子供は自立心や自分に対しての自信が湧いてこない。
初めて子供が自転車に乗る時に、後ろから大人は補助してあげるが、いつかは手を離さなければならない時が来る。
長く生きているが故に大人には知識があるし、この世界が清濁を併せ持っている事も知っている。
無知な子供が愚かな選択をしようとしていると思えて、心配して苦言を呈する事もあるだろう。
しかし、失敗も立派な経験の一つ。
子供は痛みとして、その失敗から何かを学んでいく。
それは大人に教わるよりも、よっぽど深く心に刻み込まれる。
だからこそ、大人は子供の行く末を傍で見守ってあげればいいのである。
過度に期待してはならない、それは子供にとって枷でしかない。
良かれと思って放った助言は、大概が余計なお世話であり、大人の価値観の押し付けは、子供にとっては老害でしかないから。
ましてやけして、自分の言う事を聞かないなら切り捨てるという選択をしてはならない。
そういった高圧的な態度で子供に接していると、知らない内に子供から嫌われるし、子供の人格を歪めてしまうから。
アーリャは不断の努力を継続せめども、これまで明確な目標がなかった。
己の生き方が、係留ロープの切れた気球のようだった事に気が付く。
ただ、大きな風に吹かれるままに、流されるように生きるしかなかった。
その漠然と高みを目指す生き方は、自分を肯定もしてくれたが、不安にも感じていた。
そんな彼女にとって、秋嶺祭の平穏無事な開催は、悲願の達成であった。
その自分の高みに付き合ってくれる政近はまさに、彼女にとって魔法使いのような存在であった。
新しい試みも秘めた、リアルエルフに扮したコスプレ喫茶やメイド喫茶、縁日系ゲーセンや、果てはマジックバーや、合同ライブに至るまで。
しかし、彼女の悲願に横槍を差すかのような、大事件が巻き起こる。
学園祭の最終日のボルテージが最高潮になった瞬間に、乱入者があちらこちらに現れて、暴動テロを起こしていく。
集団で行われる非常識なその迷惑行為。
その行いはどのような意図があって行われるのか?
政近や風紀委員会のメンバー達は、その騒動を何とか鎮圧しようとする。
そんな真面目な働きの裏で、本来なら学生が関わらなくていいはずである、名家の子女が通う学園ならではの、大人達の世界の汚い打算と駆け引きが、如実に絡んでこようとする。
このイベントも、薄汚い権力闘争が蔓延る現実社会に出た時の予行練習であった。
自らの才能を指し示して、一流企業に媚を売って、自らの名家とのパイプにする。
学生の身分である子供達を容赦なく選別して、切り捨てていく試験の場となってしまっている。
学生の一度きりの青春を、邪な考えを持って介入してくる来光会という、常軌を逸したOB会。
懸命な子供達の活動を、遠くの高みから見物を決め込む、大人達の醜悪で傲慢な姿。
こんな偉そうな大人達に測られる為に、学園祭を行うのではない。
別に順位をつけられる為に、自らの時間を捧げている訳でもない。
何で本当は楽しいはずのイベントを、こんなにピリピリした緊張感を大人達に持たされなければならないのか。
今まで家柄やしきたりに従ってきたが、自分には自分なりの人生がある。
文化祭で勃発した陰謀の黒幕達は、そうした薄汚い大人達な敷いたレールに、必死にしがみつこうてしたが、実力不足だと切り捨てられた哀れな子供達の精一杯の反抗であった。
歪んだ価値観を押し付ける大人達に支え続けられたせいで、失敗した時の痛みを受け入れられない者達が起こした末路であった。
大人に従うのが当たり前だと教育され、洗脳させて、それを常識にさせられたからこそ、そんな正しい大人達が計画した、この学園祭を台無しにする明確な理由があった。
また、次に行われる生徒会選挙で、他候補の足を引っ張り、自分が優位に立つという、現代社会の縮図のような価値観からもたらされるものでもあった。
「俺を信じて、待っててくれ。必ず、ライブは決行させる」
「ええ、信じてる」
アーリャとそんな約束を交わした政近は、この陰謀の首謀者である桐生院雄翔を捉える事が出来た。
講堂で討論会と題した、ピアノ対決を開催していく。
政近が選曲したのは、ショパンの「練習曲10第3番ホ長調」、いわゆる別れの曲である。
卓越した技術というよりも、感情に訴えかけるかのような演奏で、その戦いを見事に勝利を収める。
雄翔も、自らの行為をどこか辛そうに行っていた。
自分でも悪い事をしている自覚があった。
夢の舞台を汚す悪には、それ相応の理由があった。
誰かに自らの罪を懺悔したかった。
自分だって本当は純粋に、みんなと征嶺祭を楽しみたかった。
そんな彼の悔恨を救うかのような政近の演奏。
ニタニタと嗤っていた大人達さえも、圧倒させるかのような真っ直ぐで、濁りのない透明感のある音の連なり。
アーリャの生ライブは見られなかったが、政近の演奏を後から聴いて、心に繊細に訴えかけるものを感じた。
自分の生き方はけして間違いじゃなかった。
大人達が敷いたレールをただ漫然と進んでいるように錯覚していたが、仲間である有希や菫先輩が、確固たる意志を持って歩んでいるように。
その道を歩む過程で、自らの世界観が拡がって、大人達の思惑や小細工をしゃらくさいと思えるくらいに、達観して継続してきたものが、背中を押してくれている事に気が付いた。
何ら恥じる事もなければ、うつむく必要もない。
威風堂々と胸を張って、生き様を貫いて、うっとおしい大人達を黙らせてやればいい。
政近の演奏や有希の叱咤激励によって、この険しい道を征くのが、自分一人ではない事に、思いを馳せたアーリャ。
昔に取った杵柄で身体が、感覚を覚えてる程度に、ピアノの練習をしてきた政近。
幼い頃に、コンクールに出場する為に、無理に習わされたピアノ。
薄汚い大人達に人生を狂わされた被害者でもあった彼が、苦い経験のあるピアノを人前で演奏しようと決意したのも、自らの過去とこれからの未来に対してのけじめであった。
万人に上手いと認められる演奏がしたい訳ではない。
たった一人の大切な人との間にある、迷える心に届けたいと、指をがむしゃらに、けれど繊細に動かす。
五年ぶりに真剣に奏でた音によって、政近はようやく過去との本当の別れを遂げた。
それは彼の想い出に刻まれた、マーシャという一人の女性とのアルバムのページを破り捨てる事。
過去の幻影や感傷を克服していきたいという返歌として別れの歌を選んだ事が、何よりも現在、道に迷うアーリャの心に深く刺さった。
そしてそのきっかけが、政近とアーリャとの間に渦巻いていた初恋に対する清算する事に繋がった。
ただ、アーリャはその演奏を聴いて救われた自分もいたが、過去と決別を果たして自分の力で前へと進もうとする政近に対して、僅かな距離感と言いしれない寂しさを覚えた。
邪な考えで学園祭を利用した大人達を出し抜き、そんな大人達に人格を歪められ、クーデターを起こした雄翔さえも救ってみせた政近。
彼の演奏で、心に留まった闇から輝く瞬間へと連れ出された彼女だったが、その演奏は違う人との別れの意味をこめた音であった。
それはまるで、輝く星を間近で見つめると眩しく感じてしまうかのように、かすかなざわめきを胸の裡に宿すアーリャ。