勉強の時間 自分を知る試み6
國分功一郎『中動態の世界』1
古代人の世界
世の中には理不尽なことがまかり通っていることがたくさんありますが、歴史をさかのぼれば、民族とか国家とか宗教とか巨大なものが幅をきかせて、やたらと暴力がまかり通ったり、強い方が弱い方を征服したり、残酷に支配したりしていて、頭がおかしいんじゃないかと思えることがたくさん出てきます。
だからスティーヴン・ピンカーが『暴力の人類史』で言っているように、人間は昔の方が残虐だったし、近代になってだいぶましになってきているというのも、わりと納得感があると思える部分があるわけです。
しかし、ここからはそういう過去の理不尽な残虐さを、現代からさかのぼって批判したり否定したりするのではなく、そもそも人間はそういう残虐だった時代、理不尽だった時代にどんな精神構造、どんな意識でものを見たり考えたりしていたんだろうということを勉強していきたいと思います。
僕がそういうことを考えるようになったきっかけのひとつに、國分功一郎の『中動態の世界 意志と責任の考古学』という本があります。
國分功一郎はスピノザの研究から出発したいわゆる哲学者で、1974年生まれですから僕より20歳以上若いんですが、哲学だけでなく、民主主義とか社会主義とか政治に関する著書も多い人です。
初期の著作『スピノザの方法』は、スピノザの哲学をデカルトとからめて解説していてすごくわかりやすく、哲学の基本的なことを色々学ぶことができました。
『中動態の世界』は、古代ギリシャ時代の文法から出発して、ヨーロッパ人の意識がどう変化してきたかについて語った本です。
國分功一郎がこの本を書くことになったきっかけは、古代ギリシャの言葉には中動態というものがあったということに興味を持ったことでした。
まず能動態と受動態のおさらい
ヨーロッパ言語の動詞には、能動態と受動態というのがあって、能動態というのは行為の主体が対象となる人やモノに対して何か作用をおよぼすときに使う動詞のかたちです。
たとえば「AがBを殴る」という場合、Aが主語/主体としてBに対して能動的に殴るという行為を行うわけです。
このときBは行為を受ける側ですから、受動的な立場にあります。同じことを、Bを主語として語る場合は「BがAに殴られる」という受動態になります。
ヨーロッパ言語だけでなく、日本語にも能動態/受動態があるわけですし、世界中の言語には大体この区別があるようです。
しかし、この能動態/受動態はそんなに昔からあったわけではなく、ヨーロッパ世界で言うと古代ギリシャ時代あたりからその兆しが見え初め、ローマ時代に確立されたとのこと。
元々能動態も受動態もなかった
じゃあ、その前はどうだったのかというと、能動態でも受動態でもない中動態というのがあったというんですね。
そもそも大昔の言語には、中動態しかなかったと。
中動態というと、なんだか能動態と受動態の中間みたいな印象ですが、この名称自体、能動態と受動態が出現してから、「能動態でも受動態でもないから中動態と呼ぼう」という感じでつけられたとのこと。
つまり、元々中動態しかなかった時代には、言語とか文法を研究する学問みたいなものがなかったので、態の名称もなかったということのようです。
古代ギリシャ時代にも、言語学は存在しなかったのですが、國分功一郎はこの時代に世界の成り立ちを網羅的に研究したアリストテレスの『カテゴリー論』に、ヒントを発見しています。
その『カテゴリー論』には能動態/受動態ではなく、能動態/中動態の区別が語られています。それによると、アリストテレスの時代にはまだ受動態というのはなかったとのこと。
これも今の我々からすると不思議ですが、元々古い言語には中動態しかなくて、古代ギリシャの時代あたりに能動態というのが生まれたようです。
能動態の登場
アリストテレスの『カテゴリー論』によると、たとえば「彼は馬をつなぎから外す」というのは、近代の我々からすると能動態ですが、古代ギリシャでは行為者、主体が自分で馬に乗るためにつなぎから馬をはずす場合は中動態が使われ、主人が乗る馬を使用人がつなぎから外す場合は能動態が使われていました。
なんだか近代の感覚からすると逆のような気がしますが、それは中動態・能動態という名称のせいのようです。
元々ギリシャより古い古代世界では、動作の対象物に主権・所有権を有する人間が何かをすることだけが重要だったのであって、動作の直接的な主体は誰か、動作自体を誰がするかはそんなに重要ではなかったのでしょう。
だから所有者が馬に乗るために、召使いが馬をつなぎから外すという、召使いを主語にした動作というのは、言葉として語られることがなかった。語られるとしたら馬の持ち主である主人が馬に乗るために、馬がつなぎから外されたということが中動態で語られていたということのようです。
つまり、古い言語では動詞は動作そのものを誰それが行うということを語るのではなく、主体と対象物の関係とそこで行われる一連の動きの総和を語るものだったんでしょう。
能動態の誕生
ここでちょっと想像力を働かせて見ましょう。
古代は神々とその代理人である王や神官たちが支配する宗教的な時間・空間の中にありました。そこでは個人とか主体と客体といった概念は存在せず、その関係を含む総和的な行為だけがあった。
つまり中動態しかない意識の世界です。
時代が下って、アリストテレスの古代ギリシャくらいになると、これが変化してきた。
古代ギリシャも、もっと古い古代の国々と同じく、いろんな神々がいる多神教の世界でしたが、神々の意志を読み取ることができる国王や神官たちが支配する世界ではなく、政治と軍事の専門家である市民たちが、自分たちでポリスという都市国家を統治していました。
この総和的な動作の概念が変化したのは、たぶんギリシャ人が王や神官の統治を廃止して、自分たちで考え行動するようになったことと関係があるんでしょう。
市民が主役である社会で、人が市民として考え行動するには、古代オリエントや古代インドのような世界で機能していた総和的な表現では足りなくなったということかもしれません。
そこで動作の主体を意識した能動態が出現し、中動態では表現できない行動を表すときに使われるようになった、ということでしょうか。
中動態から受動態へ
さらに時代が下ると、それまで能動態と中動態が並行して使われていたのが、中動態は次第に消えていき、それに代わって受動態が出現し、やがて能動態・受動態のセットが優位を占めるようになっていきました。
アレキサンダー大王のマケドニアによる古代ギリシャ諸国併合と東征を経て、それに続くヘレニズム期に入ると、ギリシャ人のあいだでさえ、中動態はもはやその使い方すらあいまいなくらい時代遅れの態になっていたといいます。
そして、その後地中海の覇者になった古代ローマのラテン語には中動態が存在せず、能動態・受動態のセットがすべての機能を果たしていたといいます。
ギリシャからローマへ、地中海の主役が交代する過程で何が起きたんでしょうか?
ローマは歴史上初めて、多様で詳細な法による統治が行われた国家と言われています。
法律の起源と言えばもっと昔のメソポタミアでハンムラビ王が定めた法典が有名ですが、ローマの法律ははるかに詳細で複雑です。
ギリシャ人は戦いに勝ったら、相手を皆殺しにしたり奴隷にしたりしていましたが、ローマ人は相手国を同盟国として囲い込み、法による統治で同盟の拡大と繁栄を実現していきました。
法による統治は、行為者が誰であり、その行為によって影響を被った者が誰であるか、何がなされ、どのような影響を生み、誰にどれだけの責任があるかを明確にすることで可能になります。
だから行為の意志や責任、行為の主体と客体の区別を明確にしない中動態は行為を記述する動詞としてふさわしくない。
それは公的空間が神々の領域だった王政・神官政治時代の統治から、市民自身による政治へ転換が行われた古代ギリシャにおいてすでに起きていた問題でもあります。だから、ギリシャ人も次第に中動態を使用しなくなっていったんでしょう。
そしてギリシャ文化を受け継いだローマ人は、法律を基盤として行為者の意志と責任を明確にする、新しい社会の人間関係を反映させ、中動態の追放を完成したと言えるのかもしれません。
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