総選挙がやってくる!!そこで「フワッと、ふらっと、選挙の『憲法学』」
日本国憲法(以下憲法といいます)15条は、以下のように規定しています。
「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
2 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
3 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
4 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。」
ここに規定されている権利を、通常「参政権」といいます。
主権者たる国民は、政治に参加する権利(参政権)を持ちます。
具体的には、議会議員の選挙権、被選挙権、国民投票権、公務員就任権(広義的参政権)等です。
ただし、国民投票権については直接には、憲法96条・95条に規定があり、
また、公務員就任権については、憲法15条1項を根拠とする説だけでなく、
憲法14条
(すべて国民は、法の下に平等であつて、〔中略〕政治的〔中略〕関係において、差別されない。)
に根拠が求められるべきものであるとか、
職業選択の自由(憲法22条1項)によるものであるとか、
憲法13条
(幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。)
を根拠とするものだとする説もあります。
参政権の中心となるのは、選挙権です。
しかし、この選挙権を巡っては、
これは「権利」であるのか、
はたまた、
権利というよりは「公務」ではないかという点で考え方が分かれます。
多数説は、
まぎれもなく権利ではあるが、公務としての性格もあるという立場(ニ元説)にあります。
公務としての性格があるがゆえに、
公職選挙法上の、
受刑者や選挙犯罪人に対する選挙権の制約も許される
と、解されます(判例(最判昭30.2.9)も同旨)。
15条1項については、
「公務員を選定し、及びこれを罷免」とありますが、
じゃあ国民は、国会議員を罷免できるか否かという論点もあります。
これについては、まず憲法が、
国会議員が失職する場合に関し詳細な規定(45条・55条・58条2項・69条)を置いており、
またここには、
国民が国会議員を罷免できるという旨の規定はないこと、
51条は、「両議院の議員は、議院で行った演説、討論又は表決について、院外で責任を問はれない。」と規定しており、
これは、
国民による国会議員の罷免を否定する意味合いもある解されること、
憲法前文1項に「権力は国民の代表者がこれを行使し」とあることから、
憲法は直接民主制ではなく代表民主制を採用していると解することができること等の理由により、
国民は国会議員を罷免できないとする説(否定説)が通説となっています。
15条2項
(公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。)
については、「普通選挙」とは何ぞやという点が論点となります。
普通選挙は狭義では、「財力によって選挙権を与える与えないというような差別をしない選挙」という意味ですが、
広義では、財力だけではなく、教育・性別なども選挙権の要件とはしてはならないという意味になります。
普通選挙を広義でとらえるのが通常の考え方だと思います。
なお、憲法44条は、
「両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定める。但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によつて差別してはならない。」
と規定し、選挙権のみならず、被選挙権に関する資格平等の原則も定めています。
なお、被選挙権について判例(最大判昭43.12.4)は、
「公職の選挙に立候補する自由は、憲法第15条第1項の保障する重要な基本的人権の一つと解すべきである。」
としてその権利性を認めています。
普通選挙と似た概念に平等選挙原則があります。
これは、選挙権の価値の平等を意味しています。
つまり、一人一票の原則です。
金持ちには2票あげる(複数選挙)とか、
金持ちは金持ちで選挙し、金持ち代表を選び、
そうでない方々は、そうでない方々代表を選ぶというような選挙(等級選挙)はダメですよということです。
つまり、平等選挙でいう平等とは、「数的平等」を表します。
ただし、現在は単なる数的平等だけではなく、
投票の価値的平等も、平等選挙でいう「平等」に含まれると解する立場が判例(最大判昭51.4.14)・通説になっています。
15条4項は、
「すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。」
と規定しています。
誰に投票したのかわからなくする制度を「秘密選挙(秘密投票)」といいます。
15条4項はこれに関し規定しています。
公共の福祉による制約についての規定がないので、
秘密選挙については公共の福祉による制限も許されないと解されます。
秘密選挙を保障しなければ、
「お前、あれだけ○○に入れてくれとお願いしたのに、△△に入れやがって!もう、お前の会社とは取引しないからな。」
というようなことがあちらこちらで発生して、
そして、それによって嫌な思いをするのは決まって弱者ですから、
秘密選挙は、社会的弱者保護のための規定であると解してよいことでしょう。
諸外国でも広く採用されているものです。
近代選挙法の基本原則としては、他に自由選挙、直接選挙の原則があります。
自由選挙とは、選挙権を理由なく行使しなくても、罰金を科せられたり、
「こいつは選挙に行きませんでした!大切な公務を怠りました!」
みたいな感じで、氏名公表をされることはないという制度のことをいいます。
学説には、選挙には公務性もあるのだから、
理由なくして選挙を棄権するようなヤツには、
制裁を与える「強制選挙」制度も認められるとする説もありますが、
これを否定する説が多数説となっています。
「強制選挙」のように、そこまで強権的なことをされるのはまっぴらごめんだと思う人が多いでしょうし、
こういうものはしっかりとした公民教育をやれば、
選挙棄権率は下がるものですから、
そういう方法で対処する方がベターだからです。
選挙権の公務性を考慮からはずして、
権利として見た場合でも、
投票はあくまでも個々の国民の自由意志によるべきものでもあり、
「大切な権利なんだから、行使しなさい!しないと酷い目に合わす。」
というような、余計なお節介、つまりよかれと思ってやる押し付けがましい、一見倫理的に見える行為も、
憲法価値観からすると、相容れないものと考えるのが妥当だと思われます。
憲法13条
(すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする)
上の幸福追求権の一内容として
「一定範囲の私的事柄につき、公権力から干渉されることなく自ら決定する権利」、
つまり自己決定権があるとするのが通説的な立場です。
ライフ・スタイルは自分で決められるということです。
家族のあり方や自身の人生のあり方、服装や髪型等につき、
ヤイヤイ言われる筋合いはないというのは憲法上の権利でもあると解しているわけですね。
(ただし、髪型や服装については、自己決定権の保障範囲を、
人格的生存に不可欠なものに制限する考え方、
つまり、「人格的利益説」によれば、
憲法上の保護は及ばないという結論になる可能性があります。
一方、自己決定権は個人の自由な活動を幅広く保障するとする「一般的自由説」によれば、
髪型や服装も自己決定権の保障範囲となることでしょう。
上記は一般的自由説に基づき、記述しています。)
髪型やら服装のようなことだけではなく、
自分のことは例え、生き死に関することであっても、自分で決めさせろということです。
判例(最判平12.2.29)も、
「患者が、輸血を受けることは自己の宗教上の信念に反するとして、
輸血を伴う医療行為を拒否するとの明確な意思を有している場合、
このような意思決定をする権利は、人格権の一内容として尊重されなければならない。」
として、
「医師が、患者が宗教上の信念からいかなる場合にも輸血を受けることは拒否するとの固い意思を有し、
輸血を伴わないで肝臓のしゅようを摘出する手術を受けることができるものと期待して入院したことを知っており、
右手術の際に輸血を必要とする事態が生ずる可能性があることを認識したにもかかわらず、
ほかに救命手段がない事態に至った場合には輸血するとの方針を採っていることを説明しないで右手術を施行し、
患者に輸血をしたなど判示の事実関係の下においては、右医師は、
患者が右手術を受けるか否かについて意思決定をする権利を奪われたことによって被った精神的苦痛を慰謝すべく不法行為に基づく損害賠償責任を負う。」
としています。
ただ最高裁判例は、はっきりと自己決定権を認めたものではないと解される場合が多いのですが、
それに基づくと思われる、損害賠償請求権は少なくとも認めています。
また、高裁判決(東京高判平10.2.9)は、
「自己の人生のあり方は自らが決定できるという自己決定権を各個人は有する。」
というような判示をし、「自己決定権」という言葉を用いています。
このような自己決定権の対極にあるのが、本人のためを思ってというような理由付けにより行われる、
自由の制限である「パターナリスティックな制約」で、
このようなパターナリズム的な制約が、未だ社会のあらゆる面で多く見受けられるものと思われます。
パターナリスティックな制約は、自分が相手より優位な立場にあることを利用し、余計なおせっかいを行なうようなことで、
ひとつ間違えばパワー・ハラスメントとなる、
パワハラと紙一重のものです。
なお、アドラー心理学においても、他人に対する過干渉は避けるべきだという心理学的な考えがあります。
これを「課題の分離」といいます。
(アドラー心理学については以下をご参照ください)
社会における「パターナリスティックな制約」の多さが、
「自己決定権」議論の必要さを際立たせるものではあるのですが、
ただ、未成年者については、
未熟なゆえに自己の未来の選択肢を狭めるような可能性が高い事柄については、
一定の「パターナリスティックな制約」を認めるべきであるとする意見もあります。
しかし、人権を制約できるのは基本的には人権同士が衝突した場合、
つまり他者加害がある場合(公共の福祉による制約)に限られるべきであり、
自己加害があるからといって、
優越的地位を利用して親代わりになって保護するつもりで行なわれるような人権制約、
すなわち、パターナリスティックな制約などは本来認められるべきものではないと解されます。
パターナリスティックな制約を安易に認めると、これを理由に、過剰な人権制約が行なわれがちになることは目に見えており、
国家の介入をできるだけ阻止するということがメインテーマである憲法の発想から大きく乖離することになるからです。
したがって、パターナリスティックな制約を仮に認めるとしても、
これを認めなければ、本人の人格的自律性の回復が不可能なほどに、
永続的に自己加害が行なわれるという、
極めて限定された場面にしか許されないと解されます。
自己決定権の方にいってしまったので、長くなりましたが、
今回のテーマの最後は、近代選挙原則の最後の原則、「直接選挙」です。
これは、間接選挙や複選制に対するもので、文字通り選挙人が直接に公務員を選挙するという制度です。
複選制(準間接選挙制)とは、
例えば地方議会議員だけで、国会議員選挙をするというようなものです。
つまり、住民が選んだ、地方議会議員が国会議員を選挙していますから、
間接的には住民が国会議員を選んでいます。
その意味で、準間接選挙と呼ばれる場合もあります。
一方、間接選挙とは、国民がまず、選挙委員を選びます。
ついで、この選挙委員が公務員を選ぶというもので、アメリカ大統領選挙などで採用されています。
選挙委員は選挙が終わればその役目も終わって職が解かれますが、
この点(上記の例上の地方議会議員は選挙が終わっても職は解かれません)が、
複選制との違いということになります。
憲法43条1項(両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。)上の選挙には、
「間接選挙」が含まれると通常解されていますが、
複選制は間接性が強すぎるので、ここでいう選挙には含まれないとするのが通説的な見解です。
(憲法を体系的に学んでみたいという方は以下をご参照頂ければと思います)