主張があることは素晴らしいこと、でも決めつけずに柔軟でいたい
こんばんは。
会社員として働いているころ、
「~すべき」
「~なければならない」
「私の意見は〇〇で、コレコレこうなので正しい」
などと、決めてかかる思考の癖が強くありました。
自分の意見が通らないと気持ちが治まらず不機嫌になることもあったはず。さぞや周囲を困惑させていたことでしょう。
それは、自分なりに考察した結果なので自信があるが故の言動だったと思います。
でもどこか他人を見下していたり、自分の主張が通ることによって、自分を正しい人間だと感じているようなところがありました。
いわゆる”自己肯定感”が底辺に近かったのだ、と振り返っています。
最近は、いろんな人の意見を「そんな風な考え方もあるんだなぁ」なんて、是でも非でもなく捉えることができるようになってきています。
難しいことは分かりませんが、物事の多様性とかなんとか言う人に限って、〇〇であるべきだ!と、主張を曲げないことが多いように感じることもあります。
ありませんか?
私もそういう感じだったなぁ...と思い返します。
またコロナ禍に入ってから特に感じていること。
それは「人がなにかを判断する時は、主観なんだ」ということです。
当たり前すぎて、笑われてしまうかもしれません...!
学術的に論文が出ているだとか、科学的な根拠が提示されているとしても、最後はその人の気持ちが優先されるということです。
もちろん論文などの根拠を信じるかどうかにも差があります。
耳にタコができるくらい聞いた「不要不急」の捉え方ひとつでも、
美容室や歯のクリーニングは病気でもないため控えている人がいる。一方で、上記のような日常は必要なことであって、我慢しないという考え方もある。
結果、ほとんど家に引きこもっている人達もいれば、感染対策は意識しつつも概ね通常通りという人達もいれば、大人数での会食などにすすんで参加する人達など、差が激しくなっている部分です。
身体的な制限があるため避けざるを得ない方もいらっしゃいますが、アルコール消毒、マスク着用、ワクチン接種の必要性などについての考え方も同様ではないでしょうか。
定められたルールの中で生きなければいけないという前提はありますが、このような差が出てくることを忌み嫌っても仕方がありません。
各人において、自分のバランスをとりながら生きている証拠なんだと思います。
一見して悪のように捉えられる出来ごとに対しても、別の角度から見る癖ができるようになってきた現在では、随分と気持ちが楽になっているのを感じます。
私がいま思うのは、必要な場面では主張をしたい。でも他人の意見も尊重する。
善悪の二択にせず、いろんな意見に触れて、また改めて考えるキッカケとなる。そんなサイクルにしてゆきたい。
それが自分の成長と心の平穏を保つことに繋がり、ひいては周りも幸せになってゆくキッカケになり得るのではないか。
そう感じる最近です。