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全然凄くなかった自分を受け入れた日



 私の周囲には凄い人達がたくさんいた。

 素晴らしい画力を持っていたり、文才があったり、豊富な知識があったり、ユーモアがあったり、頭の回転が早かったり、度量が大きかったりと人それぞれに魅力があった。

 だからなにもない私にも何かしらの才能があるはずで、努力すればどうにでも出来ると本気で思っていた。今は全然努力してないけれど努力さえすればきっとすぐにあの人達のようになれると。


 これがとんだ思い上がりだったことに気づいたのは某氏の著書を読んでいた時だった。

 「空を飛ぶ鳥に憧れても魚は飛べないのだから、魚は魚らしく水中で生きていくのが幸せである」


 魚や鳥の話であれば当たり前のことだと受け入れられやすいが、それらを人間に置き換えると案外その見極めは難しい。

 SNSを見ていると、確かな文才を持っているのにを画力がないから自分はダメなんだと嘆いたり、有名大学に進学することや大手企業に入社することを絶対視していたり、大金持ちになるために努力をしていたり、本当に様々な人がいることに気づく。

 私も著書を読むまでは、自分にないものを手に入れる努力をしていれば幸せになれると信じて生きてきた。周りに言えば分かってもらえるような企業に入社することが正しく、努力すれば某著作を執筆された某氏のような洞察力を持った人間になって皆に認めてもらえるはずだと思っていた。


 でも言葉を反芻するうちに、これらは魚が鳥に憧れることと同じではないか?水中で暮らす魚としての幸せを考えていないのではないか?と疑念が湧いた。

 疑念が湧いた理由は、そこに自分という存在が居なかったからだ。

 自分がからっぽだったからこそなんにでもなれると空想したし、自分ではない誰かになりたいと願ってしまった。

 勿論何かを得るための努力を否定するつもりは毛頭無いけれど、自分を否定したまま、世間の価値観を絶対視して一生努力したところで幸せになれるのだろうか。

 答えはNO。たくさん努力を重ねてもできないこと、自分ではない誰かになることはできない。そもそもなんの努力もしていなかった私が、辛い人生と向き合い、努力し続けた某氏と同じになれるなんて到底無理な話だった。その時、

 「なんだ、自分って全然大したこと無かったんじゃん

 その言葉がすとん、と腑に落ちた。今まで積み上げてきた砂の城がザァと崩れていったような気がした。


 「これができなければ愛されない」と思い周囲の期待に応え続けて生きてきた。自分がどうしたい、という声には耳を貸さず、ある意味自分を高く見積もり、自分にタスクを課して、人より立派に見せなければと気を張って生きてきた。

 けれどそれは砂の城。見せかけの自分でしかなかった。

 同時に強い空虚感に襲われた。皆が自分と向き合い、個性を磨いていた間、私は何も作ることができていなかった。本当に過去が恥ずかしくなった。

 酷い自己嫌悪の中、何回思い出したかわからない嫌な記憶の脳内上映を見ているうちに段々投げやりのような、吹っ切れたような気分になってきた。


「皆のようにはなれないのだから、その路線は諦めよう!」

「きっと私がなりたいのは周囲にいる素敵なあの人ではなく、自由に生きる私なんだ」


 そう考えるととんでもなくスッキリした。「どうして私はあの人達のようになれないのだろう」といつも比較してばかりいた自分から五センチくらい前進したような、鏡に映る自分を正しい意味で見られるようになったような気がした。

 しかし、自由に生きるための持ち物。自分の長所がなにか、というところはさっぱりわからないのでこれから様々な人と交流する中で、何かしらの答えを見つけたいなと思っている。


 成長って本当に難しい。けど自分を否定して生きるよりずっと楽しい。


 ここまで読んでくださりありがとうございました。


 


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