【読書ノート#4】「東洋的な見方」
禅学者、鈴木大拙(1870~1966)の晩年の論説集です。東洋と西洋の価値観・見方について、その違い・長所や短所を語っています。90歳ごろに書かれています。驚愕。60年前に書かれたものですが、彼の憂慮していた西洋一辺倒主義は現代においてグローバル化という名の下にさらに加速しているように見えます。大拙は「東洋的な見方」にこそ人間の真の自由があり、西洋的手法の良い部分と組み合わせることでよりよい世界にしようと主張します。
以下では、東洋的な見方と西洋的な見方についてかいつまんで説明していきます。ちなみに、ここでいう東洋的な価値観は主に仏教・道教に基づく価値観、西洋的な見方はキリスト教に基づく価値観です。後者は現在の世界を席巻しているグローバル資本主義・科学主義の基礎となる価値観ですね。今回はところどころ自分の思うところも織り込んでいきます。
根本の考え
大拙が言っていることは基本的に一つだけ。西洋は分ける、東洋は分けない。西洋は分けてから考える(二分法)、東洋は分けずに感じる(朕兆未分已然)。本書では、言葉を変えながらこのことが説明されています。とりあえず表にまとめてみました。以下でもう少し詳しく説明します。
西洋的な見方
我々にとって馴染みの深い西洋的な見方から解説します。二分法は「分けることで分かる」という考え方ですね。分けることから出発する。たとえば科学は、観測者と対象物(世界)に分けて、世界の法則を見つける学問です。つまり最初に二分化する。さらに世界を分割していくことで、世界を理解しようとする。論理といっても良い。モノゴトをAと非Aに分けること、私と私以外、犬と犬以外。犬以外をさらに猫と猫以外に分ける。さらに…と無限に分割できますね。「この世には二通りの人間しかいない、XXするヤツとしないヤツだ」的な文句などまさに二分法の最たる現れでしょう。人は分割することで世界を理解できる(分けることで分かる)、という考え方です。
大拙はこの考えは神(造物主)と私(被造物主)という分け方をするキリスト教が土台になっていると考えました。たしかにキリスト教を含め一神教においては、自分の宗教以外は認めない、自分の宗教とそれ以外という二分法的な考えですね。一方で日本においては、神道と仏教は最初から排他することなく混じり合いました。分けないんですね。分けずに受け取る。良い面もあれば悪い面もありますが、こと宗教においては日本的な包容力・曖昧さは個人的には好きです。初詣に行き、節分・ひな祭りをして、お盆で先祖の霊をしのび、ハロウィンで騒ぎ、クリスマスを楽しみ、キリスト教や神道式で結婚式を上げ、仏式で葬式を上げる。このカオスな状態が心地よいです。
話を戻すと、西洋的手法による論理と言葉によって、モノゴトを突き詰めて考える方法には大きな利点があります。バックグラウンドを共有しない人にも理解できる形で伝えられるところです。数学は「世界共通の言語だ」と言われますが、数学者にとっては数式さえあれば言わんとしていることは伝わるでしょう。また過去の人の考えの上に、さらに考えを積み上げていくことが可能になります。「我々は巨人の肩にのる小人にすぎない」というニュートンの言葉は有名ですね。これが今日の科学・技術の爆発的な発展の基礎となりました。科学技術なくして今日の豊かさがないことを考えれば、西洋な見方の大事さがわかると思います。
しかし一方で今の世界が幸せな状況かと言われれば疑問でしょう。西洋的価値観だけに支配されたことで世界に歪みが出たと大拙は考えます。二分法の考えは、自分と世界をまず分けます。自分が世界から疎外され、世界と対立する存在となるのです。世界は戦い、束縛する対象となってしまう。現在、多くの人が心を病んでいるのはこのためではないか?と大拙は言います。
東洋的な見方による「自由」
ではどうしたら良いのか?人間が真の自由を得るためには、東洋的な見方の習得が必要であると大拙は考えました。二分法で分けて疎外感を受けるなら、分けずに自分を感じればいいじゃないか、という主張です。以上。
、、と終わらせたいところです。なぜなら東洋的な見方を説明するのは大変だからです。その理由は明確で、東洋の考えとは「不立文字」、つまり文字に依らない”体験”でしか究極的にはわからないからです。言葉をいくら紡いでも、むしろ紡ぐほど東洋的な見方(〜悟り)からは離れていく。禅問答や念仏宗教のような、西洋的に見れば非合理な方式が発達してきたのもこのためです。
そもそも自由とは何か?自由とは元々は仏教用語だそうです。仏教というと「生老病死」など消極的なニヒリズムであると思われる人もいると思いますが、大拙は、むしろ「絶対的積極性を持っている究極的な肯定」であると言います。それは人間としての生存価値、「生きがい」であるとも。
自由って概念は西洋にもあるのでは?と思いますが、
だそうです。なるほど。では本来の自由とは?
自分なりに解釈すると、外界の環境との相互作用(受け身=消極性)に依らない、内側から湧き出る(能動=積極性)意識~行動こそ自由だということでしょうか。当たり前ですが、湧き出るってのは物欲や性欲などの煩悩ではないです笑。本能を超えた、しかし超えたことすら意識されない心の底(老子でいう玄の玄)から出るものでしょう。
東洋哲学の実践
東洋哲学が人に「自由」をもたらすという主張はわかりました。ではどうやって身につければよいのか?東洋哲学は「生き方」そのもので、また哲学の代わりに詩があると大拙は言います。モノゴトの捉え方・生き方・考え方を変容させることが、東洋哲学のゴールになります。たとえば同じ禅問答や詩を見ても、修行者のレベルによって受け取れるものは異なるでしょう。これは西洋哲学ではあり得ないことです。なぜなら言葉の意味・論理が理解できれば、必ず伝わるにように書かれている(書かれるべき)のが西洋哲学だからです。わからない大半の理由は前提知識がないからでしょう。伝えることを前提に言葉を紡ぐのが西洋哲学です。
しかし東洋哲学はまず言葉を否定します。言葉とは実質ではないからです。「水」という言葉を飲むことはできず、概念としての「水」のシンボルにすぎない。そのシンボルを組み合わせることで新しい概念を組み上げることもできます。これは西洋の良い部分でもありますが、一方で実質から乖離する方向へも進んでしまいます。東洋ではこのシンボルは幻であり、これをを壊せと言います。
人間は生まれてから言葉や常識によって作ってきたフレームワークを通して世界を見ています。東洋哲学ではこれを取っ払って世界を見よ、と言います。無茶な話だし、怖いですよね。この恐れる気持ちは「自分」と「世界」を分けている「自分」、その自分というアイデンティティごと未分割の世界へ飛び込む勇気「未知の境域へ驀進または侵入する覚悟」が必要だと大拙は言います。既存のフレームワークを飛び越える「横超」が必要だと。二分性を超絶しようとするとき、「Aは非Aが故にA」という非合理を合理として受け取る必要があります。
以上のような実践を通して、言葉・論理の不完全さ・認識の不完全さに気づいた時、「そうか」とわかる瞬間がある。言葉で束縛された世界から開放され自由を得ることができると言います。完全に体得するにはお坊さん並に修行しないとですが、個人的体験としては瞑想していると言葉のない境地を感じられるときがあり、それに近いのかなとも思います。
ここまででわかると思いますが、東洋的価値観の短所は「伝えづらい」ということです。私の説明が拙いのもありますが、そもそも言葉に依らない体験を言葉で説明しようとするのが無理があります。また個人個人が時間をかけて実践する以外に体得する方法がないです。その結果「体験」を多くの人に伝え・広げるのが難しくなります。
東洋哲学と西洋哲学の解釈を図にまとめてみました。
西洋的価値観を超えて
東洋的な見方を持った大拙には、60年前の世界ですら窮屈な世界に見えたようです。西洋的手法は、言葉や概念を紡ぐことで組織をつくり上げ、外側にある「世界」を変容させる力を持ちます。これによる恩恵もありますが、人間はモノ化され、作り上げた人間自身がこの組織の中に囚われ窮屈な生き方を強いられます。組織の歯車といえば会社ですが、そもそも社会生活そのものが組織ですね。
大拙はこれを「仮我の世界、思議の世界、組織でかためた世界、機械、概念、技術、経済や権力で締め上げた世界」と言います。そして東洋的な見方を身につけることで、
という自由を得ることが大事だと説きます。
、、以上見てきた通り、東洋的な見方を伝えるためにこのnoteでも「東洋」と「西洋」を分けて、言葉や図(シンボル)を使って説明しています。他の人とコミュケーションをとるときに言葉を紡ぎ伝える手法は大事で、西洋的手法はグローバル時代に生きる我々にとっては必要な技術です。一方で、それだけでは満たされないものがあるのは確かです。資本主義では人をモノや数字として取り扱います。世界の見方がそれしかないのはあまりにも寂しい。世界と相互作用するための技術としての西洋的な見方と、真の自由をを得るための東洋的な見方、この二つの手法を使い分けることが、よりよい人生を生きる上で大事なのではないかと思いました。
特に米中の対立が深まるこの世界では、「分けない」考えの重要性が増していますね。
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