【読書ノート#6】「人生の短さについて」(後)
前編に引き続き、セネカの本から心に残った言葉とその感想を書いていきます。
今回は岩波文庫と「ローマの哲人セネカの言葉」から引用します。岩波文庫の「生の短さについて」にはテキストが3編収録されており、うち1編「幸福な生について」が光文社版と異なるのでこれを引用します。
「ローマの哲人セネカの言葉」(以下、中野本)は、著者の中野孝次さんがセネカのテキストの中から心に響いたものを引用しつつ自分の考えも書いてる本です。私が読んだテキスト以外からの引用もありここから引用します。個人的にセネカの言葉から東洋思想に似たものを感じるのですが、中野さんも同様に感じられているようです。
4. 幸福な生について(岩波文庫)
4-1. 徳(= 自然、神)
外部からの幸運に一喜一憂することはない。来るもの拒まず去るもの追わず。自らの徳によって得られる喜びを、真の喜びとする。コンサマトリー(自己充足的)な行為にこそ真の価値があるということですね。
ここでいう神は一神教の神ではなく、自然としての神です。現象として世界に起こること(~ 神)を全て受け入れること。良きことも悪しきことも、幸運も不運も。そこに原因を求めるのではなくただ受け入れること。東洋の諦念にも似た匂いを感じます。老子のタオに近いイメージ?
言い方が個人的に刺さったので引用しました(特に中野本)。文章の前半だけだとよく聞く「だから自分が世界にできることを探そう!」的な言葉につながるんだけど、そしてそれは個人的には共感するし、自分も何かしたいとは思うんだけど、後半の文章に痺れます。
世知辛い世の中、自分の価値は自分で認めてあげなきゃいけない。そんななか「あなたのためにみんなを贈ってくれたのだ」という言葉は自分のかけがえのなさを感じ、だからこそしっかり生きようとも思えます。"One for all, all for one."と似たような意味な気もしますが、チームの精神論ではなく人生論にまで広がっているところにこの言葉の素晴らしさがありますね。
この辺りも仏教と似てる気がします。仏教は無我を説きますが個人を蔑ろにするのではなく、むしろ個を拠り所にすることが出発点だと私は理解します(間違ってるかもだけど)。全存在はつながり合っていて、そのネットワークのかけがえのない存在としての個。個がネットワークをつくり、ネットワークが個をつくる。一は全、全は一。上記のセネカの言葉にも通じるところがありますね。
4-2. 富
富であれ、幸運であれ、自分に来たものは良いものでも悪いものでも「執着せず」受け取ること。そこに罪悪感などいらない。せっかく運命が自分に貸し与えてくれたのだから、それを使って魂を磨けば良い。とはいえ、借り物なのだから、返すときは執着なく返すこと。それさえ守れれば罪悪感なく受け取れば良いのだ。
とセネカは言います。
前編にも書いた通り、ローマでの有数のお金持ちだったセネカの言い訳っぽいところもありますが、自分のような小さいな人間には刺さる言葉です。自分は内罰的なところがあり、こうして好きな本を読んで感想を書けるのってありがたいなと思いつつ、その幸せに少し罪悪感を抱いてしまったりします。かといって他人のために全力で何かをできるような良き人間でもありません。最近は折り合いをつけられるようになりましたが、若いころは結構大変でした。そんな若い頃の自分に特に贈ってあげたい言葉です。
5. マルキアへの慰め(中野本)
息子に先立たれた女性へのセネカの慰めの言葉が書かれています。テキストの引用は一部ですが、自分は母親のことを思いつつ少し涙しながら読みました。
当たり前のことを言っています。客観的には誰でも理解できることでしょう。それでも不幸が自分の身に起きたとき、「なぜ私が」と多くの人はと思うでしょう。そこにたぶん本質的な理由はないんです。世は無常。形あるものはいつか崩れる。ただ受け入れる。そして生きる。
心のみが自分のもので、他のモノ(身体、知識、家族、地位、お金、etc)はすべて借り物であり、死ぬまでに全て返さなくてはならない。息子をどんなに愛していも自分の所有物ではない。天災が常時起こる日本では無常観が発達したため、日本人はこの心持ちは受け入れやすいのかなぁとは思います。
セネカ自身も子供を失くしたり、無実の罪で島流しにあったりと理不尽な境遇に何度も立たされています。そんな人生を送ってきた彼が言うので重みがありますね。
理由のある「価値」は偽物です。わかりやすいのはお金ですね。なぜお金に価値を見出すかといえば、お金で生活品が買えたり、贅沢ができるからです。一万円札は飲めないし食べることもできません。砂漠のど真ん中で必要になるのは、一億円の札束ではなく飲み水です。
遡れる「価値」に真の価値はない、とセネカは考えます。真の価値とは理屈ではなく「自分の喜びの体験」にしかない。つまりそれ自体に喜びを感じたかどうかが真の価値を決める。コンサマトリー(自己充足的)な喜びこそ真の喜びであると。
逆に真の価値を感じる瞬間があったのだとしたら、その全てを肯定できる。息子を育てる中でそれ自体に喜びがあったのだとしたらそれで十全なのだ。いま息子がいないことではなく、息子がいたことで湧き上がった喜びに目を向け彼の存在(亡くなったことも含めて)を肯定しよう。そうセネカは言ってるのではないでしょうか。
6. 道徳についてのルキリウスへの手紙(中野本)
6-1. 友
読書についての記述です。偉人の書いた古典とじっくり対話することで人は変わることができる。新刊に色々と目移りして読み散らかすと、知識は増えるだろうが自分が変わることはないだろう、とセネカは言います。
ここでも書いた「友としての古典」はセネカのこの文章からも影響を受けてます。
自分の態度が相手を変える。当たり前のことだけど忘れがちですね。勝手な自分の思い込みで相手にレッテルをつけて評価すると、それは相手にも伝わり自分にも返ってきます。「悪い人」だって親切にする相手はいるだろう。映画に出てくるような全方位的極悪人はそうそういないはず。
こんな状態を目指したいですね。自分からは常に逃げられない。自分自身に退屈している人は、どれほど刺激的な体験をしてもすぐに退屈するでしょう。一方で自分自身に喜びを感じる人は、どんなにぱっとしない環境でも喜びを感じることができるでしょう。自分に最も近しい友は自分なのだから。
6-2. 喜ぶことを学べ!
何を喜ぶべきか学び、つまらぬことで喜ばないこと。真に価値あるもの、自分の内(善)から湧き上がるものに喜べるようになること。それが成長なのだろう。
「喜び」は生理的な快楽とは異なり学ぶもの。ここ大事なポイント。これは人にしかできないことです。
これまで出てきた考えと同じですね。徳とはそれ自体が喜び。それ自体が報酬であること以外に真に価値のあるものはない。外部からもたらされた幸運は、いつか誰かのもとへと去るだろう。死ぬまで共にいるのは自分だけなのだ。
7. その他
自分を知ることが人生の醍醐味だとするならば、多くの経験を通して自分の可能性を拓いていくことは何と心躍ることだろう。苦い経験もあるだろう。しかし何の不自由も困難もない人生の何が楽しいのか!
セネカからの希望の言葉を噛みしめましょう。
前後編にわたりセネカの言葉を紹介しました。違うテキストでも通底した思想があったと思います。セネカの思想に(おそらく)大きなブレはなく、市井に生きた彼はそれを人生の色々な場面で使いまた磨いていったのでしょう。
自分が読書する理由も、人生をより良く生きられるように考えるきっかけのためです。彼の言葉から学ぶことも多いですが、思想を血肉として人生に活用したその姿勢こそ最も学ぶべきことなのかもしれません。
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