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【読書ノート#5】「人生の短さについて」(前)

今回は(自分的)読みたい古典リストより一冊紹介します。
著者のセネカは、紀元前1年に生まれ1世紀を生きたローマ時代の政治家です。キリストが生きた時代の人ですね。セネカの生涯はまさに波瀾万丈で、権謀術数うずまく政治に翻弄されながら、かの悪名高いネロの教育係となり、晩年には政治家として最高位の執政官を務めるまでになります。しかしそこでハッピーエンドとはならず、かつての教え子である皇帝ネロに自殺を命じられ、自ら命を断ち生涯を終えました。

すごい生涯ですね。。詳しく知りたい人はぜひ本を手に取ってみてください。さてその生涯だけでも興味深いセネカですが、彼の名が今も伝わるのは彼の著作ゆえです。セネカはギリシャ哲学を学び特にストア派の考えを人生の指針としました。ストア派はストイックの語源ともなった学派で、ざっくり言うと「自然から発生する徳に生きよ」を指針としています。

セネカは「哲学者」ではなく、政治家という人の欲に塗れた世界に生きる人です。思想を突き詰めるというより、人生の出来事に哲学の考えを必死に活用しようとする。それが独特の面白さや説得力をもって我々に迫ってきます。読んでもらえればわかると思いますが、現代の我々のために書かれたのではないか?と思うほどです。

そんなわけで読書中に線を引きまくった本で、心がパサついたときに何度も読みたいなぁと思います。以下、特に心に残った文章を引用して簡単な感想を書いていきます。光文社古典新訳文庫に収録されている「人生の短さについて」「母ヘルウィアへのなぐさめ」「心の安定について」それぞれより引用します。

1. 人生の短さについて

1-1. 怠惰な多忙

われわれは、短い人生を授かったのではない。われわれが人生を短くしているのだ。

セネカはストア派の教えを人生の指針においており、彼にとって人生とは、社会的成功や快楽でなく徳を磨くことでした。社会的成功を目指して忙しく働くことに人生の意味はない。つまり生きていないと同じだ、と彼は言います。生きてないのだから「人生は短く」なる。

逆に言うと、自分にとって真に価値のあることに時間を注ぎ込めれば「人生は十全」のものとなる。セネカの別の文章で子供を早くに亡くした女性にそのような励ましの言葉を書いています。若くして死ぬことと、人生をよく生きたことは関係ない、と。真に生きられたのなら若くして死んでも十全に生きたと。逆に社会的成功を虚しく追い求め年老いた人は、顔に皺が刻まれても十分に生きたとは言えない、とも言っています。

他者と共にありたかったがゆえでなく、自己と共にあることに耐えられなかったがゆえ

誰かと過ごさないと不安な人たちへの警句ですね。自分自身は一人で過ごすが好きなんですが、心に余裕がなくなるとYouTubeや無意味な本を漁ったり、会社の仕事に逃げたりして自分に向き合えていないなぁ、と反省しました。自分と向き合い徳を磨くことこそ人生の意義であるとセネカは言います。まずは「自分」を一番の友としてしっかりと向き合うこと。

生きるということから最も遠く離れているのが、多忙の人間だ。生きることを知るのは、なによりも難しいこと

「怠惰な多忙」。この言葉を知れるだけでセネカの本を読む意味はあります。「忙」は「心を亡くす」と書きます。古代中国の人も忙しさの本質をわかっていたのだなぁと改めて感心しちゃいました。情報化社会やらSNSやらで「忙しく」する現代人は、セネカからどう見えるのでしょうか。

1-2. 自分を知り、磨くために

これらの哲人たちは、いつでも時間を空けてくれる。彼らのもとを訪れれば、帰るときはいっそう幸福になり

「これらの哲人」とはギリシャ哲学の本(セネカの時代にも古典)の著者たちです。本を読むことで、いつでも著者と語り合うことができる、過去の偉人を友としよう、とセネカは言います。たしかにいつの時代にも偉人はいると思いますが、実際に会うのは難しいでしょう。しかし幸福なことに、古典を開けばいつでも過去の偉人は会ってくれます。

彼らがしばしば死を望むのは、彼らが死を恐れているがゆえ

これは個人的にドキッとした言葉です。自分は本気で死にたいと思う事はないですが、負の気分になることはあります。しかし本当に生にも死にも執着がなければ(どちらでも同じなので)「死にたい」などは思わないはずですね。これって、生に執着してるがゆえ、生が自分の思い通りにいかないとき、全部を壊したくなる子供のダダみたいなものなのかもしれないなぁ、と自省しました。

2. 母ヘルウィアへのなぐさめ

2-1. 成長

賢者はできるかぎり自分自身に頼り、すべての喜びを自分の中から引き出せるように、つねに努力してる

「成長」とは自分の中から喜びを引き出せるようになること。喜びは学ぶもの。よきものに喜び、無意味なものに喜ばないこと。

自分自身に軽蔑されるようなことをしなければ、だれも、他人に軽蔑されることはない。

まず自分を友とせよ。自分と対話し、自分に恥ずかしくない行動をすること。自分自身「やっちまったー↓↓↓」と思うことも多いですが、自分を信頼してあげられない人間を、他人が信頼してくれることはないですね。

2-2. 足るを知る

おまえたちの体がどんなにちっぽけなものか、考えてみようと思わないのか。わずかなものしか受け入れられないのに、たくさんのものを欲することは、狂気であり、精神が陥る最悪のあやまちではないか。財産をどれだけ増やそうが、辞書をどれだけ広げようが、おまえたちの体は大きくならないだろう。


欲望は決して満足しません。しかし、自然は、わずかなもので満足します。

ある人の渇きを癒そうとしても、その欲求が、水分の欠乏からではなく、体内の燃えるような熱から生じたものであれば、どれだけ水を与えても、満たされないのと同じです。なぜなら、それは渇きではなく、病気なのですから

飢えをしのぐ、渇きを癒やす。人が生きるために必要なものはそれほど多くないはずです。しかし名誉欲や金銭欲などはとどまることを知りません。これをセネカは渇き(生理的な正しい欲求)ではなく病気とします。たしかになぁ。。

こういった「病気」は、人間社会が生物進化より早く進化したため、サバンナ時代の生物機能が社会に適応しきれていないことによるバグだと個人的には思ってます。食べ物が多く摂取できないサバンナ時代、カロリーのあるものを脂肪として蓄えるという生物機能が、現代社会において逆に健康を害するように。

人の苦しみのほとんどは、野生動物の本能が理性・社会生活と折り合えないことで起きている気がします。

3. 心の安定について

3-1. 自分との向き合い方

自分のことを追って付きまとう、最も厄介な同伴者は、自分自身(中略)われわれを苦しめているのは(中略)自分自身の欠点なのである。

どうして人はそういう心の落着きへ達せられず、落ち着いた心を維持できないのか?(中略)自分自身と一つになれぬこと、自分を信じきれぬこと、自分への不満が原因

旅に出ようが、気晴らしをしようが、自分は常に同伴している。自分を友にできない人は、いつ・どこでも苦しむだろう。逆に自分を友にできた人は、いつ・どこにいても喜びを見いだせるだろう。そうセネカは言います。

じゃあ一つの場所にとどまれば良いのかというと、そういう表層的な話ではないです。「内省 vs 外部刺激」という単純な対立構造ではないはず。赤ちゃんは外部からの刺激で成長して大人になるわけで、外部の刺激なしに内省する心を育むこともできないですね。

しかし内省もせず旅行や転居を繰り返す人は、外部刺激で一時の陶酔・忙殺を与えることで痛み(現状の不満)を麻痺させてるだけです。このような一時しのぎでは、麻酔が切れればまた痛み出します。次はより大きな刺激を欲することになるでしょう。
一方で内省できる人が、外部からの刺激を得ればさらに内省を深められるサイクルができる。だから無駄な刺激を繰り返す必要はない、そうセネカは言いたいのだと思います。

書物の山は、学ぶ者を押しつぶすだけで、なにも教えてはくれない。多数の作家によって道を迷うより、少数の作家に身をまかせたほうが、はるかによい。

「外部刺激」は「場所の移動」だけではなく、書物でも同じこと。己と向き合い、向き合うに値するものを厳選すること。現代はローマ時代に比べて多種多様な刺激がありますから、セネカの言葉はより切実になってきますね。

3-2. 賢者の生き方

賢者は、それらが自分に貸し与えられたものであるかのように生きている。だから、返却を求められれれば、文句も言わずに返すことであろう。

かなり仏教的なことを言ってる気がします。洋の東西を問わず賢者は同じ答えにたどり着くんですね。この世に自分の所有物などありません。自分の体もお金も家族も、全て仮初め・借り物である。最長でレンタルできて100年くらいでしょう。死ねば全て返す必要があります。だからこの世のものに執着することなど馬鹿らしいこと。時運が味方してお金持ちになろうが、理不尽な理由でお金がなくなろうが、全ては借り物なのだから執着せず返せば良いのだ、と。

セネカ自身は当時ローマでも有数のお金持ちだったらしく「金に執着してるじゃねーか」という批判もあったようです。セネカは聖人はなく、あくまで市井に生きより良い人生を求めた人です。社会に生きる我々にとっても親近感がわき、お手本にしやすいのも良いところだと思います。

まぁ確かに自分で稼いだお金を、もっと貧しい人いるんだから出せよ、と言われても自分も困っちゃいますからね。微力ながら貢献はしたいと思いますが。セネカの出した答えは「来るもの拒まず、去る者は追わず」のようです。

人生を嘆き悲しむより、笑い飛ばしたほうが、人間的なのだ。

ギリシャ的な健康的な見方で面白いですね。この後、人生を生きるさらに良い方法として、

笑いにも涙にも、とらわれないようにすること

と言っています。仏教と同じ帰着ですね。執着するな、と。

3-3. その他

高くそびえ立っているように見えるのは、じつは断崖なのだから。

社会的に地位が高い人が立つ場所を断崖に例えています。これは素晴らしい比喩ですね。切実さが伝わってきます。普通の人たちは、地位の高い人を羨ましがるかもだが、彼らは実際にはギリギリの場所に立っており、落ちることへの恐怖心と戦っている(人が多い)のだと。政治家の最高位まで上り詰めたセネカが見た実際の風景なのでしょう。


さて、今回は光文社新訳文庫の「人生の短さについて他二篇」の気になる箇所を書きました。まだまだ心に残った言葉があるので、次回もセネカをやります!岩波文庫版ローマの哲人セネカの言葉を使う予定です。


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