【読書ノート#1】 日本文化の核心
昨今の自粛モードのなか、引きこもり生活に磨きがかかっているので、気になってる本とかテーマを学ぼうかと思い立ち、日本文化について最近興味があったので「日本文化の核心」というそのものズバリなタイトルの本書を手にとってみました。著者は松岡正剛さん。千夜千冊で有名な編集者で、日本文化にも精通していて多数の著書があります。
新書だけど内容はめちゃめちゃ濃いです。イザナミから世阿弥はたまた椎名林檎まで、時間も文化領域も超えた著者の縦横無尽な視点。薄っぺらな「日本文化」で日本を語るなという気概が感じられる一冊。序文にはこうあります。
お、おぅ。いきなりのハードボイルド宣言。。そんなわけで理解するには本とじっくり向き合うのが一番。なのだが、本書は松岡さんの膨大な知のネットワークを前提に書かれているので、バックグラウンドがないと理解できない箇所も多々ある(少なくとも自分には)。また多様な文化について松岡さんがつど道案内してくれるのだが、曲がりくねった小道に入ったりするのでそのままついて行くと迷子になりがち(笑)。そんなわけで迷子にならないように道標をこのnoteでは書いてみたい。もちろん誤読の可能性があるので、気になった人はぜひ本文にあたってください。
本文読解のための道標
松岡さんの主張を読み解く上でキーワードは3つ。
松岡さんの主張で最も大事なのが「日本文化とは方法である。」ということ。いきなり言われてもなんのこっちゃだと思うので図に書いてみた。我々が日本文化というと、能やらワビサビやら思いつくが、それら個別のテーマではなくそのように変化させるフィルター(ジャパン・フィルター)こそが日本文化なのである、ということ。図でいう青塗り部分が日本文化。数学で言えば「日本文化とは関数である」と言えるかも。y = f(x)のf(.)の部分。色々なインプット = xに対して変換する装置、それが日本文化だと。
で、「一途で多様」も頻出するワードなんだけど、自分なりに解釈すると「方法に一途で、現れは多様」ということなのだと思う。図のように「日本文化」と呼ばれるものは実に多種多様なものがある。しかしその現れのルーツを辿ると、つねにジャパン・フィルターの存在が見える。このフィルターを使うということに対しては一途であるということだろう。多様な文化があるように見えるが、方法日本という視点で見れば一つの文化として見ることができる。
ではそのジャパン・フィルターとはどんなものなのだろうか?本文では色々な切り口から解説をしているのでぜひ参照してほしいのだが、一番のキーワードは「おもかげ・うつろい」。
自分なりに解釈するとこんな感じ?
たとえば貴族社会の「あはれ」という価値観が、武家社会になり「あっぱれ」へと変化する(うつろう)。「あはれ」が想起させる心情(〜面影)がうつろったとき「あっぱれ」になっている。この変化させる機構こそ日本文化(ジャパン・フィルター)。一番目の図では簡単のために外部情報のフィルターとしてジャパン・フィルターを書いたが、実際は上図のように内部で醸成された文化がお互いに干渉し合う機構として重要な役割があったという考え方かな。
ここでいう「おもかげ」ってのは共通して持つ記憶・心情のようなもの。たとえば「桜」と聞いた時、現代の日本に生まれ育った人なら「美しさ・儚さ」や「別れ・出会い」などを想起し、その奥には言葉では表せない感情の蠢きのようなものがあると思う。この蠢きは、外国で生まれ育った人が文章を読むだけでは中々感じづらいだろう。もちろんどの国のどの文化にも同様の機構は働いていると思うけど、この「おもかげ」を日本はとりわけ重視したのではないかというのが松岡さんの考え。
個人的な解釈
かつて日本人は、この世に表出しているものは仮のものであり、求めるべきものはこの世ではなく「おもかげ」にしかないと(無意識的に)感じていたのかもしれない。これは仏教的な価値観に近い気がするが、仏教が日本へ与えた影響の大きさを考えれば不思議はない。和歌もまた表面上のテキストの奥にある感情(〜面影)こそ重視したメディアともいえる。
なぜそれが日本文化を作るのか?もしこの世が仮のものであれば、「仮の部分をこねくり回しても仕方がない」という考えになるのではないか。どのような文化・考えも「おもかげ」という緩衝領域(バッファ)をもつことで、直接的な争いを避けられたのではないか。「漢字」と「仮名」、「将軍」と「天皇」、本来ならどちらか一方が駆逐しても良い状況で日本はどちらも活かす方法を取った。「二者択一」しない態度は表出する言葉・文化だけ見ると優柔不断なだけに見えるが、その奥の「おもかげ」まで辿れば(無意識かもしれないが)つながっている。そしてまたその緩衝領域で面影同士の関係が変化する(うつろう)ことで、新しい文化が表出する。これが日本文化ではないか?、、というのが松岡さんの考えだと解釈しました。
感想
文化への地勢的な影響は大きい。日本文化においては、以下の要素が効いていそう。
・中国のすぐ近くに位置(ゆえに世界最高の技術・文化に触れられる機会を得た)
・島国(ゆえに多量に「人」が移動してくることなく、技術・文化が断続的に入ってくる)
・国土が比較的大きい(ゆえに地域による多様性が生まれる)
・四季がはっきりしており、天災(地震・火山・台風etc)が多い(ゆえに移り変わり・諸行無常の精神が生まれやすい)
島国にゆえに他民族に(民族・文化ごと)駆逐されることはなかった。中国という最高レベルの文化・技術を取り入れつつもマルッと既存のものを置き換わることはなかった(というか、島国で外国から来られる人数が限られていたので、置き換えるには人数的に不足)。また島国としては大きかったので地域による多様性も生まれやすかったのでは。
文化とは地勢に基づく生活が観念やスタイルに昇華されたものとすれば、一つとして同じ文化は存在しないわけで、どれも大切なわけで、グローバルも大事だけどまず自国の文化に誇りと敬意をもつことが大事だなぁとしみじみと感じることよ。
また「おもかげ」の大事な点として「あいまいさ」がある気がする。「桜」の面影にしたって厳密に言えば個人個人で異なっている。でもやっぱり「桜」といえば「あの感じ」だよね、「アレ」だよねというものがある。その違いをわざわざ明確にしようとは思わずぼやかしておく。そのあいまいさが「うつろい」を呼び込む「あそび」になっている気がして、日本文化の大事な側面だと思う。
どこで読んだか忘れたけど、外国の人が書いた日本語の文章「私は三日間、風邪で寝込んでました。」を「私は三日ほど、風邪で寝込んでました。」と添削したというエピソードを思い出した。「三日間」とパッキリ言われるとどこか居心地が悪い。曖昧さを残しておきたいのだ。この感じが日本文化とも言えるかもしれない。
一方で「空気読めよ」というのは「あいまいなアレ」が悪い感じに出た部分とも言えるだろう。会社では自分も「曖昧な表現を使うな。定量的に誤解ないよう報告して」とか言うし、現代に生きる我々は当然「あいまいさ」を許容できない場面も多々ある。しかしそういう表現だけが日本語の使い方ではない、むしろ「あいまいさ」は日本文化において重要な意味があるということを認識して使い分けていきたい。
このnoteでは日本文化の具体例については全く触れなかったけど、書籍にはてんこ盛りに実例があるのでぜひ読んでみてください。個人的にはこの本を起点に、気になったテーマについて学んでいこうと思う?(あいまいにしておきます笑)
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