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耳鳴り潰し249(インド映画「エンドロールのつづき」)

 これまで観てきたアニメと比べると、「ダンダダン」への子どもたちへの没入率がかなり高いことが伺える。主人公たちのピンチに必死になって応援しているし、恋愛シーンになるとキャッキャしてるし(そして父に向かって「こんな青春送ってなかったけど大丈夫?」の視線を送ってくる)。

 昨日読まれていた本。

 地味に読まれる本を多数作る、という新書系アカウントが実際読まれ始めているのは嬉しいのだけれど。本垢であるはずの泥辺名義は相変わらずさっぱりである。

 さっぱりの例。

 主に耳鳴りの肥大化が原因で少し陰鬱とした日々を過ごしているので、解決するのはインド映画だ、と思い立つ。ムトゥ的な、踊るマハラジャ的なものを心が求めていたのだろう。大雑把に「お勧めのインド映画」で検索して目に留まったタイトル「エンドロールのつづき」を観た。いつものように少しずつ鑑賞しようとしたのに、一気に全部観てしまった。おかげでやらなきゃいけなかったことをやっていない気がする。

 全然ムトゥでも踊るマハラジャでもない話。インド版「ニュー・シネマ・パラダイス」だなと、始まってすぐに感じるが、あちらは途中から恋愛要素が多くなり「そこは私にはどうでもいいですスイッチ」が入ってしまったのだが、こちらには恋愛要素はゼロ。

 私にとって映画とは、驚きの大どんでん返し、とか、究極のアクション、とか、壮大なスペクタクル、とかは別に求めてない。「好きなシーンがあるかどうか」である。理由はうまく説明できないけれど、「あ、ここいいな」と思ったシーンがあれば、一生脳内で繰り返し再生して楽しめる。「エンドロールのつづき」でいえば、主人公の少年の母親が、手作りお弁当を作るシーンがそれだった。やけに美味しそうだなと思っていたら、映画館の映写技師にそのお弁当を渡して、映画を観られるようになるという、重要なアイテムでもあった。

 主役の少年の美しさと自然な演技、田舎町の風景、バラモンの出ながら貧困の中にいる家族の描写、悪事を働くも報いも描かれている、映写機と大量のフィルムの最期を無言で見つめる圧巻のシーン、主人公の旅立ちのシーンで私は涙を流していた。2023年の映画で、国際的な賞も獲っている。数多くの映画監督の名前をあげていくラストで、日本人監督の中では小津よりも黒沢明よりも先に「勅使河原」の名があがっていた。阿部公房の「砂の女」などを映画化した人。やはり監督の自伝的な要素があるのだという。

 息子と怪獣人形での対決ごっこ。途中から何故かラップバトルになる。ロゼゴクウブラックに対してアークベリアルとカオスヘッダーイブリースとザム星人が立ち向かうのだが、アークベリアルの戦闘力一万二千に対してロゼゴクウブラックが一ガイ(100,000,000,000,000,000,000)なので、成す術もない。我が家の最強の移り変わりを目にしつつ、なんでラップバトルなんだろうとも思いつつ。

「エンドロールのつづき」のタイトルをもじって、「あとがきのつづき」という話を考える。先の戦争の後、妄想力だけが残った人々は一斉に小説を書き始めた、しかし「あとがき」を書き終えなければ出版社には相手にされないため、「あとがき専門代筆屋」であった父の思い出話、といったもの。先の戦争って何だ。

 今日の一枚「踊らないマハラジャ」


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泥辺五郎
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