動物から考える社会運動⑦【後編】動物問題を発信するアーティスト・ミュージシャン・作家たち
※ ⑦【前編】の続きです。
動物問題を発信するアーティストたち
——日本の表現者、ものを描く人、あるいはリベラルの人たち、アーティストもそうですが、そのなかで動物の問題について語る人や表現する人が少ないと思うのですが、その理由は何か考えられますか?
深沢 動物のことを考えて書いている人でも、「でも別にベジタリアンなんかじゃないけど」と一言書いているのは、よく目にしますね(笑)。
——わたしアートの悪口ばっか言う人みたいになってますけど、最近、現代思想の流行りみたいなものがあって、クィアやエコロジーといったキーワードで展覧会が開かれたりしています。わたしが行っていた台湾のイベントも「クィアエコロジー」がテーマで、理念先行という感じがして、みんな実際の運動や活動を何もしないままに、「クィアは大事だよね」「人と人じゃないものの関わりを再考していこう」「人ってなんだろう」とか、すごく大きい抽象的な問いに還元してしまって、その下の方にいる動物たちなりクィアの人々のことは実際には見ずに、作品や概念ばかりが先行しているという状況があると思います。
ビーバーがかじった木をモチーフした作品が、現代美術館でばーんと置かれていたりして、これが脱人間中心主義の代表みたいになってたら嫌だな、とか。
深沢 労働力の搾取じゃん。
——それは日本人の作品ですけど、議論の蓄積もないまま、なんとなく「今っぽい」という感じで終わっちゃってるんですよね。そういう議論が進んでいかないまま、表現家界隈でも流行りになっちゃってるという現状があります。
栗田 それは残念だね。ジェンダーアートのことでいえば、1990年代に「ジェンダー 記憶の淵から」という展覧会があって、実に生々しかったんですよ。例えばある作品で最初に出てくるのはすごくきれいな現代アーティスト女性で、自分のきれいなヌードを撮る。1970年代からその自分の姿を撮り始めているのだけれど、その人が乳がんになり、どんどん歳も取って太っていって、乳がんで胸がなくなっていって・・・というのを全部撮っている展示があった。あと中国の纒足の女性の写真とか、生々しいものが多かったんですよ。
だから、今動物のアートとかいったら、今の工場畜産の写真をモチーフにしちゃうくらいのことをやる人が出てもちっともおかしくないと思う。わたしにとってジェンダーアートって結構生々しかったから、今はそんなビーバーが齧ったものになっちゃったの? と聞いてびっくり。
——変な洗練のされ方があると思います。台湾で、スイスから来たヴィーガンのアーティストが、作品を作るのをやめて、動物の権利や福祉について演説していたんですね。わたしはかっこいいなと思っていたんですけど、「ちょっとあれはやりすぎだね」みたいな雰囲気が業界関係者のなかで流れている感じがあって、酷いと思いました。
* アニマルライツやヴィーガニズム、工場畜産についての作品をつくっているアーティストたち。
・Alice Newstead
・Sara Sechi
・バンクシーは、グロテスクな表現を使わずに、屠殺場への輸送を再現。
生田 世界的には、ミュージシャンではベジタリアン、ヴィーガンは結構多いですよね。ポール・マッカートニーをはじめ、プリテンダーズのクリッシー・ハインドやプリンスがそうだし、モリッシーもそうだし、Rage Against the Machineのザック・デ・ラ・ロッチャもだし。あとザ・スミスの『ミート・イズ・マーダー』があるね。ただ日本はやっぱり少ないかなという印象がある。
深沢 藤井風! 藤井風!
* ポール・マッカートニーは「ミートフリーマンデー」(=週に一日お肉を食べない日を設ける)を提唱している。
* Evaによるペット産業の啓発動画
* イヴァナ・リンチのポッドキャストでは、ハリポタにおけるアニマルライツなどの議論もされていておもしろい。
ダメダメな文芸評論界——「動物化」ってなんだよ
生田 あと、文芸評論でいうと、東浩紀の「動物化する世界」ってあったけど、あれは動物問題でいうと全然ダメなんです。『動物化するポストモダン』で言ってたんだけど、「人間が…をしなく(できなく)なった」ことを「動物化」と呼んでいる(「したがってここで「動物になる」とは、そのような間主体的な構造が消え、各人がそれぞれ欠乏―満足の回路を閉じてしまう状態の到来を意味する」)。でも、それは「…する動物」というアリストテレス以来の「人間の定義」の裏返しなんです。「西洋の東洋化」という表現と同じで、「人間の動物化」は「人間中心主義」を前提にしている。でも、それがなぜか、思想界とか文芸批評界ではウケて流行したんです。
たとえばアメリカで、アフリカンアメリカンの問題に全然関わっていない人が、文化的なファッションを「黒人化するポストモダン」とか言ったら大問題になったと思うんです。そういう意味で、文学業界での動物問題に対する意識はめちゃくちゃ低いというのは確かだと思いますね。
深沢 雑誌『現代思想』(青土社)でも去年、「肉食主義について考える」という号がでて、こういう企画があること自体は画期的だと思うし、いくつか重要だと思う論考はあったんですけど、「肉を食べるとはどういうことか」というような抽象的な議論が多くて、もったいないなと感じました。日本のアニマルウェルフェアの異様さについてはほとんど論じられていなくて。ヴィーガニズムの是非だったり、培養肉や昆虫食の議論をするのは悪いとまでは思わないけど、でも、「我々は肉を食べるべきか否か」といったデカい議論をする前に(あるいは同時に)、「いや、肉を食べるとしても、現実の動物たちにこれだけ不合理な暴力が今起こっていますよ」というところを見せなくちゃいけないんじゃないかな。
栗田 人間がすることの方にフォーカスされちゃうということだよね。
深沢 そうですね。
栗田 レナさんが最初にこの動物の企画を立てるときに、「現実の動物がどうなっているかということを無視して企画を立てたくない」「まず動物はどうなっているかという話をしたい」というのを最初に伝えてくれたけど、それはこの座談会やレナさんの思想の一貫したものになるんだろうなと思います。人がどうふるまうかの前に、じゃあ動物はどうなっているのか?という。
深沢 それはやっぱり自分のセクハラ被害者としての体験で学んだことだと思います。被害者の声を聞かずにわたしの頭上はるか上で議論されたり、イベントに呼ばれて前に立たされても「これが被害者です」と見せ物のようにされた挙句、理念ばかりで、結局、今目の前にある問題の解決には力を貸してくれないということがあって本当に頭にきているから、それと同じことをわたしは動物に対してしないように、まずは現実の動物たちのことに光を当て、今自分にできるベストなことは何か、と問い続けなくちゃいけないと思っています。
*『ボーンズ・アンド・オール』はかなり怖いがおすすめ。
* 映画では『GUNDA』もおすすめ。
→⑧ 動物問題と交差性 へ
(構成:深沢レナ)