動物から考える社会運動⑨まとめ!
わたしたちはなぜハラスメント運動/野宿者支援をしながら動物の運動をするのか?——動物問題連続座談会の一回目第9弾。野宿者支援・労働運動など複数の問題に携わってこられた活動家の生田武志さん・栗田隆子さんをゲストにお呼びし、交差的な運動についての議論を深めていきます。
動物問題にかかわる漫画あれこれ
深沢 日本も漫画では畜産の問題というか、「生き物を食べる」ということについて問題提起するような作品はわりと色々ある気がしますね。『寄生獣』からはじまり、『鬼滅の刃』『進撃の巨人』『東京喰種』、今は『約束のネバーランド』『食糧人類』みたいにストレートに工場畜産を思わせるような作品も出てきています。
栗田 でもそれを生活にどうつなげるのか、というルートが抜けている気がするね。
深沢 うん。あ、でもあれだな。生田さん、『ダーウィン事変』って読んでます?
生田 読んでます。あれはかなり挑戦的なもので、あの作者はもともとSF的な手法で人間の可能性の限界を探るということをやっていたんだけど(『えれほん』では「脳死状態の母親とへその緒で結ばれていないと生きていけない」主人公や「著作権が過剰に保護され、違反者が検挙・拘束される社会」を描いたSFなど、社会的にタブー視されがちなテーマを一種の思考実験によって問い直す作業をしている)、『ダーウィン事変』ではアニマルライツの活動家が過激派となって、人間と猿の異種配合の「ヒューマンジー」という種の主人公をもとに動物解放するというSF的なストーリーをやっている。井上太一さんは「活動家に対してあきらかな戯画化だ」といった批判していて、たしかにそうなんだけど、それにしても興味深い漫画なんですね。どうなるか、不安を感じながらも注目しています。
深沢 あれは画期的ですよね。たしかに活動家をテロリストとして描くのはあるあるですけど、でもあの作品は、ヴィーガンにもいろんな種類があることを描いてますよね。主人公のヒューマンジーはヴィーガンだけど、全然活動家ではない。それで他のヴィーガンと対立したりするんですけど、ヴィーガンが主人公の漫画が日本から出るということはすごいことだと思う。
生田 種差別という言葉もたくさんでてくるし、ヴィーガニズムの問題も出てくるし。マンガ大賞とったんですよね。危ういところもあるけど、「蛮勇」というか、挑戦的な漫画ですね。
深沢 非常に下調べのクオリティも高くて、わたしもすごいなと思って読んでるんですけど、ただ、主人公である「孤独な男」に女性キャラがやけにケアしてるところがずっと気になってて、最近それが恋愛に発展してしまって抵抗感も覚えます。
栗田 畜産じゃないんだけど、昔、環境問題のテーマでは、新井素子の『グリーンレクイエム』というのがあった。人間が木を切っちゃうなら、木が人間を食べてもいいじゃないか、という発想のSF。作者が10代で書いた本で、昔読みました。でもそれは畜産のアニマルライツではなくて植物の話だからちょっとニュアンスが違うな。
でも、今日話してて、日本がなかなかアニマルライツに行けないしくみみたいなものが多少見えたな。違う問題に焦点を当てざるを得なくなる要素が常にある。
深沢 エロ漫画の広告は、ほんっとにどうにかしてほしいよね。
「わたしたちは動物ではない」——動物に対する優位性をなぜ語るのか
生田 ここで言うべき事だと思うんですが、『ワタシタチハニンゲンダ』という、外国人に対する差別政策を浮き彫りにした映画があります。僕も見てすごくよかったんですけど、チラシには、人権侵害に苦しむ外国人が異口同音に訴える、「わたしたちは動物ではない。人間だ!」とあるんです。映画の内容はともかく、日本社会の外国人差別を告発する場で、人間の動物に対する優位性をなんで語らなければいけないんだ、ということなんです。つまり、この表現は、「わたしたちは外国人ではない。日本人だ」という表現と、ある意味似た深刻な問題を持っているわけです。
この映画を勧めてくれたのは、釜ヶ崎にいるシスター・マリア・コラレスで、
映画にはシスターが在日外国人女性と一緒に出ていて、その女性が「私たちは人
間、動物じゃない」と言われていました。そして、「だから、間違うこともある。
そうであれば、それを修正していくことができるはずだ」ということを言われて
いました。
その後も外国人男性が「私たちは人間です、だから間違うこともある」と言わ
れていました。「でも、一度の間違いで排除するのはおかしい」と。
この映画の趣旨は、二人が言われたように「私は人間だ。だから、間違うこと
もある。しかし、それは修正することができるはずだ」ということだと思うんで
す。チラシは「私達は人間だ、動物ではない」を強調してますが、動物を貶める
意味を強調すべきではないと思います。
生田 そこは、動物問題と人間の差別の問題をどうリンクさせるかというむずかしさが露呈してしまったんだろうと思うんですね。
栗田 たしかに、「わたしたちは人間です」という言い方は労働問題の中でもよく言われます。切られた人が、「わたしたちだって生きてるんだから、そんな簡単に首を切られて、さあ生きていけ、と言われても無理です」というニュアンスで、「わたしたちは人間です」という言い方はする。だけど、たしかにそこを動物との差異において「人間です」と言うのとは違うよね。要するに、「わたしたちだって生きてるんです」と言いたいことを、「人間です」と言ってる人もいて。
生田 「わたしもあなたも同じように人間として生きています」というならまだわかるんですけど、安易に人間という言葉をつかうのは危ないときがあるな、とよく思います。
栗田 結局、「動物じゃない」みたいな言い方に回収されちゃう恐れがあるからね。
それこそさっき、東浩紀が「動物化」という言葉を安易に使っていて、「アリストテレスの時代ですか?」みたいな話があったけど、そういう「動物じゃない。人間だ」という言い方も、人間中心主義でアリストテレスの時代みたいじゃん。アリストテレスなんか2000年よりもっと前の紀元前の人じゃん。
生田 アリストテレスは「女性は完全な人間ではない」って言ってなかった?
栗田 そう。もちろんいろいろそこから時が経て変わっているけど、わりとまだアリストテレスを笑えない現実があることを突きつけられますね。
深沢 そこは対話を頑張りたいですね。『ワタシタチハニンゲンダ』のことも、どうしてその表現だといけないのかを根気強く話せる機会とかが作れたらいいですよね。
まとめ!——ぼそぼそ声のヴィーガニズムへ
——長い時間ありがとうございました。最後に一言ずついただければと思います。
栗田 ずっと「自分が当事者」という立場でやってきたところから、視点がどんどん違うところに立っていった、というのがわたしの今日のストーリーかと思うんです。だけど、やっぱりわたしもヴィーガンにはなれなくて、なんか小石が喉に引っかかっているような罪悪感——常に石をひっかけているような状態だなとは思うんです。肉食していることを開き直りたいわけではなく、また肉を食べなければ生きていけないとも思っていないのだけど・・・。まず、今はこの中途半端な状態を大事にしたいと思いました。今って、常に正々堂々としてるか、責められて「なんとかしなきゃ」とうしろめたさ100%で生きるか、という二択を強いられている。とくにネットとか、SNSでそういうのがすごく強くなっちゃったとわたしは思うんですけど。あきらめないためにも——これは「あきらめないためにも」というのが大事で、「開き直るためにも」ではないんですけど——あきらめないためにも、おさまりの悪い状態というのに耐えれるようでいたいな、って思いますね。家族が好きなステーキを時々は食べたい、でもやっぱり現状の食肉が今日話されたプロセスで作られていると思うと100%堂々と食べる気にもなれない・・・みたいな引っ掛かりをもって生きるということがもっと当たり前になるといいな、と思っています。
生田 みなさん長い時間お疲れさまです。深沢さんの取り組みは、裁判資料をずっと読んでいて関心を持って見ていたんですけど、こういった形で動物問題で呼んでいただいて話し合いができて、これもある意味意外な驚きでおもしろいことだな、と思っています。
そもそもその裁判になったのが、文芸評論家によるハラスメント問題なんだけど、やっぱり文学関係者のハラスメント問題が根本にあって、それは根深いと思うんですね。たとえば、今一番有名な文芸評論家の1人として柄谷行人がいるけど、あの人の元妻の冥王まさ子の『天馬雲を行く』という小説があって、一応フィクションなんだけど、ほぼ事実のようで、そこでの当時の夫の柄谷行人のモラハラ発言がすごいんですよ。読んで呆れ返っちゃうんですけど、この本は文庫になっていて、解説を柄谷行人が書いている。それで、著者の記憶力について、例によって理論的に解説しているんだけど、自分のモラハラ発言に対する反省は一言もない。
柄谷行人の重要性はまちがいないし、僕も影響を受けているんですけど、こういった発言が問題視されてないのは異常な話なんです。ついジャニーズ問題を思い浮かべちゃうんですが、誰かが明確に批判して、それをどんどん改善していくということがなされていない。それはやはり我々がやっていかなきゃいけないんじゃないかな、と改めて思っています。
動物問題の交差性はいろんな問題と絡むので、全部一気に考えていくとパンクしちゃうんだけど、できることを一個一個やっていかなきゃいけないな、と思っているところです。
深沢 みなさん長い時間ありがとうございました。関さんも司会してくれてありがとう。わたしはハラスメントの運動の方が、この前の4月に東京地裁で判決が出て、そのあと伊藤比呂美という世界的に有名な女性詩人から二次加害されたことで、ポンっとはじけてしまって、ハラスメント運動のほうがまったくできなくなってしまっていて、動物のことならまだできるからやっているんですけど、ハラスメントのことと動物のこと、どうしてわたしはこの二つをやっているんだろう?ということは今日も話してきましたが、でも全部の答えは出ていない。今、ハラスメントの方で行き詰まっていることの突破口は、動物問題を考えることで見えてくることがあるかもしれないな、とも思っています。
こういうふうな場を作れたことはとても嬉しいです。わたしは大学院を中退してしまったから、学ぶ場がないんですよね。勉強会とか読書会とか、もともとあった文学関係の人間関係が全部壊れちゃったから。そういう場すらないというなかで、こういう場を自分で作ると同時に、それをネットで出して、他の人に場を提供することもできたらいいな、と思いました。
動物問題も、大学で動物の法の講義をやるとすごく人気だったりするらしいんですよ。だから、動物問題って広いから大変なんだけど、どんどん体系化していったら、知られていくことだと思うんですよね。知りたいと思っている人もいると思うんです。わたしは運動をまったくやってこなかったときの自分も覚えているから、そういう人たちにもどうやって届けられるかという橋渡しみたいなことを自分はできたらいいな、と思います。
わたしも体力ないんですけど、こういう、栗田さんの『ぼそぼそ声のフェミニズム』のヴィーガニズム版——「ぼそぼそ声のヴィーガニズム」みたいな——半分ひきこもりだし、考えるの遅いし、障害も抱えているし、お金もないし・・・みたいなヴィーガンもいて、そういう活動の仕方もあるんだよ、という選択肢をみせることがとりあえずできたらいいかな、と思っています。
——ありがとうございました。わたしにとって一番やりたいことは、深沢さんなどのハラスメント被害者の支援や被害回復の道を探ることなんですけど、レナさんを支援する=動物のことを考えることができる、こういう場に一緒にいれる…ってなんてお得なんだろうと、自動的にマルチイシューが実践されていいじゃん、という気持ちになりました。本当にありがとうございます。
*動物問題連続座談会はまだまだ続きます。次回もお楽しみに〜!
※2024/11/22 一部修正を行いました。