DON-AN曇庵

曇庵・海野次郎 日本画、水墨画家。室町時代から桃山・江戸時代初期に確立し、敗戦までは明確だった日本の歴史的芸術観の立場から、今を見ていきたいと思う。水墨画塾「墨海会」主宰。

DON-AN曇庵

曇庵・海野次郎 日本画、水墨画家。室町時代から桃山・江戸時代初期に確立し、敗戦までは明確だった日本の歴史的芸術観の立場から、今を見ていきたいと思う。水墨画塾「墨海会」主宰。

最近の記事

画家の語 る日本美術史

水墨画家の立場から編み出した、実践的な日本美術史を語るシリーズです。 https://youtube.com/channel/UCkkSFgPuRUAY8Sw6o93HnEg

    • 美術評論の自縛

       ちらりと目を通した新聞のコラムに、評論低迷の原因を、対象とすべき事が書き尽くされたからとして、重箱の隅をつつくようなものしきりできなくなったとあった。  門外漢から見ていると、自分で枠域を限定して何も残っていないと嘆いているように見える。  新しい文章表現が認められる、良い時節となっているように思えるのだが、確かに容易ではない。  しかし、もう次の書き手がしっかりと用意をして待っている事だろう。それは今の延長にはなく、しかし人類史を踏まえているはずだ。

      • 筆の話 「如水」について

         先日明治時代に考えられた「直入翁」「芳文先生」などの筆を試した事で、いろいろに考える事があった。  あれ等の筆は、あまりにも形がとりやすいことで、逆に絵の可能性を限定してしまうのだ。決まった形式を大量に描くするには至って便利だが、そのことで表現の幅を制限してしまう。  道具は延長された身体なので、使い難くとも、より性能の出せるものが求められることもある。  水茎堂に電話をしたついでに、私が愛用する「如水」と「芳文先生」の構造上の違いを尋ねてみた。  ともに羊毛の運筆筆な

        • 明治時代の筆

           水茎堂が復元した、明治時代の画家である田能村直入や菊池芳文も使用したのではないかと思われる「直入翁」「芳文先生」という筆を試す機会があった。  羊毛の多い運筆だが、二つを比べると「直入翁」はより短い。その分思ったように筆で形をとる事ができる。「芳文先生」は標準的な長さの運筆だが、すこし短めかもしれない。表現力は格段に豊かだ。  なるほど、この筆だとあの絵が描けるなぁと想像ができるものだが、かといって誰でもができるということではない。それほどに、四条円山派的な絵画が高度に行き

          陽炎プロジェクトの事

          この陽炎プロジェクトの提案は、2019年に受けた。  10年ほど一緒に活動してきたコミッショナーが、できる限りのあらゆる可能性を試みての結論は、海野の仕事は時代に受け入れられない、というものだった。  しかし必要とする人も確実に居て、守り継ぐべきだというのが、もう一つの答えだった。  人が自由で美しく生きるために芸術があると考える、古風な日本画家の営みに意味があると考えて、このドタバタ物語は始まっている。    この6月に開催予定の『陽炎Ⅱ」案内状デザインを、おくてんディレク

          陽炎プロジェクトの事

          「直入翁」筆

            水茎堂さんは明治期の筆の復元に取り組んでいる。正月の前後にその成果を幾つかまとめて送ってくれていたのだが、仕事に追われて試せないでいた。一段落ついたので、ここでやっと「直入翁」の大きさ違い五本に墨を含ませることができた。  運筆を行うのに形のとりやすい筆で、小・中・大・大々辺りまでは、ほとんど気を使う事もなく筆が進む。さすがに極大までいくと、少し気を使ってコントロールしないとならない。  短峰なので、均一な長い線は不得意かもしれない。田能村直入の絵を思い出しながら筆を使っ

          「直入翁」筆

          絵を描く動機

           『モリのいる場所』という画家の熊谷守一を扱った映画を見た。その中に守一役の山崎努が、絵を描くのは好きではないというような意味を語る部分があって、正直だったのだなぁと思った。正直に成れたというべきか。    サツマイモの切り口や雨樋を描いた絵には驚いたので、彼の回顧展へ行った事がある。  年代順に作品を見ていくと、晩年のパターンが完成してすぐに、絵を描く興味を失った事が分かる。その後も作品は続くのだが、はしょって帰ってきた記憶がある。私には珍しい事だった。あの時、私は熊谷守

          絵を描く動機

          雪の降る前に

           晩秋の森を歩くのが好きだ。雪景色になる前に、秋の最後を見に行く。  木の葉が落ちて、薮もなくなった山は木々の姿が奥まで見通せる。    川は凍り始めている。  無数の枝が重なって、それぞれの線が絡み合い、どこまでも続く。  刺激的な色彩はないが、しずかな褐色は微妙で豊かだ。  眩暈のするような深みに、歩きながら螺旋に堕ちていける。 

          雪の降る前に

          無意識

           年末に始めた試作がうまくいかない。何点か同時並行で試みているので、中には少し見込みがある物もあるのだが、これと決めてかかると、外れてしまう。  無意識にやったものが良い。ある程度以上の大きさの画面になると、無意識でいることが難しくなる。無意識を試みて方法論の定型に陥るのが、美術史の示すところだが、それでは意味がない。  おそらく、無意識という物を考え違いしているのだろう。そうやって美術史を見返すとヒントはある。しかし、それは私のものではない。新年が明けたら早速に試してみ

          小さな松ぼっくり

           2020.12.23  家の横に立つ大きな松の木から落ちる実を、意識したことがなかった。  小さな実をゴミとだけ思って、何十年も掃除していた。  きっと、もっと大きな物だったら意識することがあっただろうし、造形的にも見ていただろう。  突然そんなものに気がついて、見えたことに驚く。同時に怖くなる。    なにかが変わっているのだが、その理由がわからないからだ。  慌てて、とりあえずは描きとめる。そうしなければならないとだけは分かった。  あれから1週間ほどが経っ

          小さな松ぼっくり

          筆の止まる時を大切にする

           教室で、生徒さんの筆が止まった時を大事にして、見逃さないようにしている。  集中して、思いをのせて描き続けていたのに、その先をどう続けて良いのか分からなくなってしまうのだ。    その理由は色々にある。しかし分からずに先を続けると、大抵は失敗に終わる。  たまに無理やり進んで良い結果を出す事もあるが、珍しい。  妥協して教則本に従い、心ならずの結果を受け入れることもあるだろう。  どの選択肢をとっても、その選択の意味を理解しているように、考えている。  立ち止まって、

          筆の止まる時を大切にする

          素描という技

           久しぶりに、家の周りで風景の素描をする。  木の葉が落ちて、交叉する枝が良く見えるこの時期が好きだ。  素描というのは、自分が何を見て感じているのかを、描くことで確かめるというような感覚があって、面白い。  知らない自分が見えるからだろう。  結果を求めているのではなくて、瞬時に移り変わっていく自分を、見極めている感覚を維持することが目的だ。  描きながら、ふと池大雅に真景図と称する物が多いことを思い出す。  彼にとっての真景図は、大陸の古典に習った雪舟様式でもなく

          素描という技

          花梨

           花梨の実をくれるという人がいたので、紙袋の中を覗くと、傷だらけの黄色い塊がたくさん詰まっていた。アルコール漬けにして喉の薬にするとか、香りを楽しむという実用ではなく、オブジェとして転がしておくのも良いかと思って、頂いた。  眺めているうちに、傷や変色が面白くなってくる。  この感覚は何なのだろうかと訝しむが、整理がつかない気持ちを、しばらくゆっくり放置してみるのも面白そうだと思った。

          実盛

          2020.12.01   千駄ヶ谷の能楽堂に、観世清和の「実盛」を観る。  我が家にはテレビがなく、山中に住んでいることもあり、芸能に接する機会は少ない。たまに嫁はんと能楽堂まで遥々と出かけるのを楽しみとする。  後シテになってから、ふと三島由紀夫のことを思った。ついでに彼について述べた、高橋睦郎の文章を思い出す。三島の割腹現場の写真は無残なものだったという。しかしそれは三島の必然的な結末であっただろう。とはいえ、森田必勝を伴ったことは濁りだと云う趣旨だったと思う。  舞台の

          石上神社の庭に入る

          2020.11.27  青梅街道を車で走っていて、石上神社の前を通り過ぎるたびに、一度寄ってみたいと常々思っていた。駐車スペースは見当たらないし、国道も狭くて止めることはできない。  意を決して、狭い道をJR石神前の駅へ向かって車を進めたが、やはり駐車の余地はない。たまたま庭で掃除をしていたご婦人に相談をしたら、快く場所を貸してくれた。  古くからの神社だが、鎮守の社なので大仰ではない。大きな銀杏が静かに黄色く染まっていた。気持ちの良い一日だった。

          石上神社の庭に入る

          女王への弔歌

          初冬の陽の射す日 コンクリートの床の上に、女王が倒れ、放置されていた。 恐れながらも近づくと 頭が砕かれ、少しも動く気配はない。 静かに 手のひらに横たえる。 正確に頭蓋を砕いた、暗殺者の腕前を褒めるべきかもしれない。 私にできるのはその尊厳を讃えることだけだ。

          女王への弔歌