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『知の体力(永田 和宏)』【読書記録#38】

私は受験勉強が好きだった。

かなり珍しい部類だと思われるが、大学受験に向けた勉強をしていくうちに、知識が増え模試で点数が徐々に上がっていくのがとても楽しく感じられた。もはやゲームのような感覚だったと言える。

結果的に希望の大学の前期試験で合格し、念願のキャンパスライフをスタートさせることができた。

その後は大学で順調に勉強を重ねていき、大学院にも合格。
しかしここで大きな問題が発生した。

卒業論文が書けないのである。

問題意識を持っていたはずなのに、先行研究の方が素晴らしいし、自分ひとりが今更考えたところでどうにもならなさそうなテーマになってしまった。

結局卒業論文の締め切り前日になんとかできあがり、推敲もできないままに提出することに。もちろん稚拙な内容だったので、発表会でもよい反応を得ることはできなかった。

そういうこともあり、大学院生活をスタートさせる前に研究することが自分に不向きだという判断を下す。修士号を取るために研究を行うことはできなかった。

なぜこの話になるのかというと、本書を読むことで高校までやっていた勉強と大学以降で行う研究とで、その性質のギャップを埋めることができなかった反省と後悔を思い出したからだ。

本書でも高校までの勉強と大学からの研究は別物で、必ずしも答えが与えられるものではないと示唆している。

高校までの勉強は、インプットが重視されていて、その答えも教員が持っている。正解不正解が数値化された環境が用意されている。

 答えは確かに<ある>。それが初等中等教育における「問題」の大前提である。そして先生はその答えを知っている。その正しい答えに、どうしたら自分たちも到達できるだろうか。先生が知っているはずの答えと自分のものが一致すれば正解で、違っていればバツ。それが入学試験も含めて、高校までの試験の問題であった。
 考えてみると、これは怖いことではないか。なぜなら、小学校から高校まで、誰もが一貫して、問題には必ず答えがあるということを前提とし、正解は必ず一つであつと思い込んできたのだから。

一方研究は自身のインプットを論文というアウトプットにしなければならない。そこには必ずしも答えがあるわけではなく、一生涯かけて向き合う問題になる可能性すら孕んでいる。

そういった当然のことに気づくことができなかったから、私は大学院から逃げ出したのだ。

 読んで字のごとく、「学習」とは、学び、習うもの。「習う」は「くりかえして修め行うこと」「教えられて自分の身につけること」という意味である。学んで、その学んだことを身につけることが、「学習」である。
 それに対して、「学問」とは何か。学習が、学んで修める、習うことであったのに対して、学問は、「学び、かつ問うこと」と私は解釈している。学び、それを受け入れるという一方的な「知」の流れではなく、入ってきた「知」をいったん堰き止めて、それが正しいのか問い直す、どのような意味を、あるいは価値を持っているのか問い直す。そのような「問う」という行為を加えたところに「学問」の意味があるだろう。おのずから「学習」とはその態度、姿勢において異なったものであり、はみ出た、あるいは対立するものであるかもしれない。

さて、当時の苦いことを思い出してしまうような書籍だったのだが、これからどのように問い続けていくのか。世の中のあらゆる知識を自分ごととして問い直していくのか。これも解決できない問いかもしれないが、覚悟を持って向き合うべきことである。

本書では他にも気づきとなるようなことがたくさん論じられている。興味がある人はぜひ読んでみて欲しい。

それではまた、次の本で。


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