なぜ強いのか?ー読書感想「証言 羽生世代」(大川慎太郎さん)
棋士・羽生善治はなぜこれほど強いのか?それだけでなく、同世代の複数の棋士まで強いのはなぜなのか?この問いに、当事者へのインタビューで迫っていくのが大川慎太郎さん「証言 羽生世代」だった。将棋が全く無知でも楽しく読める。ジャンルを超えて「強さ」を形作る本質に触れられるからだ。16人の証言に重なる部分が生まれるのが面白い。それは羽生世代が「デジタル」と「アナログ」の境界に立って鍛錬を続けたということだった。(講談社現代新書、2020年12月20日初版)
深く読む
デジタルとアナログ。このうちアナログな「深い思考」が羽生世代の基盤だと指摘するのは「光速流」谷川浩司さん。羽生世代の先輩棋士だ。
谷川 あと若い頃にタイトル戦で長考した経験も大きかったでしょう。特に羽生ー佐藤戦と羽生ー郷田戦に多かったのですが、序盤の何気ない局面でも1時間、2時間と熟考していましたよね。定跡が確立されている順でも立ち止まって、「こういう手はないか、ああいう手はないか」と熟考に沈んだわけです。その時は盤上に現れなかったとしても、じっくり考えたことが大きな財産になっている。彼らがこれだけ息長く活躍しているのは、その頃の蓄積が大きかったと思うのです。
ーー最近はコンピュータの将棋ソフトを使って事前に研究をする棋士が多いので、序盤は時間を使わずにどんどん指す傾向があります。(p48-49)
インタビュアー大川さんの解説と併せて、面白い。現代は将棋ソフトによって効率的な「攻略ルート」が見えているようだ。しかし羽生世代はソフトの興隆期の前に若手を経験し、効率化する序盤に熟考する経験を得た。
もう1人の先輩島朗さんは「恩寵」と表現する。
ーーなるほど、昔風の精神面と現代のデジタルな部分の両方を併せ持つ唯一の世代ということですか。
島 そう、だから時代的な巡り合わせもあると思います。もちろん彼らの長くたゆみない精進が多くの部分を占めているにしても、ライバルの存在は大きいですし、「深く読む」という基本的姿勢が彼らの将棋をつくってきたことは間違いない。羽生さんが中心にいて、その周りを彩る人たちがいた。だから「恩寵」という言葉がふさわしいような気がしてますね。(p70)
時代の巡り合わせ。将棋ソフトがない時代に培った深い思考が、将棋ソフト全盛の現代にまで通用するというのは痛快だ。
だとすれば、データ主義、効率主義がますます加速する「これから」には、どんな強い棋士が生まれるのだろう。彼も何らかの方法で深い思考を獲得するのだろうか。それとも全く別種の思考法を構築するのだろうか。
オープンネス
これだけなら「アナログ最後の世代だから強いんだ」ともなりかねないが、そうではない。羽生世代はデジタルの先駆けだった。ブラックボックスだった「指手」をオープンにしたのだ。
奨励会同期の飯塚祐紀さんの証言。
「羽生さん以前の将棋界は職人的な世界だったと思うんです。将棋の話をしても、『ここはこうやるもんなんだ』という感覚的な話が多かったんですね。でも羽生さんたちの将棋は、一手一手の意味を筋道を立てて説明できる。羽生さんの定跡書や実践集も、『こういう理由があるからこう指した』と書かれています。そこが羽生世代が盤上で起こしたいちばんの革命ではないかと思っています」(p174)
一手一手の意味を筋道立てて説明できる。この「オープンネス」が羽生世代の別の秘密であり、飯塚さんは「革命」とすら言う。
深い思考とオープンネスは、円環のように互いを高めあったように思う。当たり前の道に別の一手がないかを長考する。そこで見つけたこと、見つからなかったことを整理し、誰かに説明できるまでになる。それは再び熟考するための糧になるし、新しい道への手がかりになる。
この原則は普遍じゃないか。つまり、わたしたちの日常にも敷衍できるはずだ。既に最適解が見出されている仕事で立ち止まってみる。そこで考え、見つけたことを、仲間に説明できるレベルまでもっていく。そしてあくまでオープンに知を共有する。羽生さんにはなれなくても、こうした実践を重ねる人間にはなれる。
あるいは「境界に立つ」という発想も、わたしたちへのヒントに思える。もしも羽生世代が深い思考だけだったら、逆にオープンネスだけだったら、黄金世代にはなれなかった。ある価値に、ある世界に沈み込むだけでは足りない。だから意識的に「抜け出さないと」いけない。
それは別の世界に飛び込むことだと早計するのは危険だ。そうではなくて、境界に立つ。自分が足場とする世界と新しい世界をブリッジする。抜け出しつつ、離れない。こういうバランス感覚は、分断が加速する世界の価値になるはずだ。
次におすすめする本は
黒崎真さん「マーティン・ルーサー・キングーー非暴力の闘志」(岩波新書)です。キング牧師も実は、さまざまな黒人運動家の中に立つ存在だった。そのなかで非暴力な権利獲得を実現するために、あえて「キング牧師」という存在を意図的に演出した様子が描かれる。羽生世代とはまた別の世代論、歴史的偉人の「別の顔」が見られる好著でした。