「よし行くぞう」と貨幣は雄叫びをあげる(鏡篇)
1985年・バブル前夜
いわゆる「バブル時代」が始まる直前の1985年、大学を卒業したばかりの私は、最初の赴任地の札幌でホテルマンとして働き始めた。巷では吉幾三の「俺ら東京さ行ぐだ」がヒットしていて、地元採用の高卒の新人たちとカラオケへ行くと、喜々としてこの歌を歌う男がいて、「俺らこんな村いやだ~」という歌声を聞きながら、「田舎のメンタリティーは実感としてつかめないなあ」とその光景をなんとも言えない不思議な気持ちで眺めていたのであった。今から振り返ると、吉幾三の自虐的なコミックソングは、この時期に世界中に浸透してゆく「新自由主義」を、援護射撃するかのように脇からサポートしていたのかもしれない。1985年はプラザ合意があり、翌86年にはサッチャー主導による金融ビッグバンがあって、日本は否応なく金融市場の拡大の動きの中に巻き込まれていったのである。「俺らこんな村いやだ~」という叫びには、貨幣の運動を根底で支えている不自由さからの脱出願望がわかりやすいほどに滲み出ていたと言える。
具体物の不自由
ここでいう「不自由さ」とは、モノがモノであることの不自由さである。山間部で収穫されるリンゴはリンゴというモノでしかなく、沿岸部で獲れる魚介は魚介というモノでしかない。「地産地消」と言えば聞こえはいいが、山間部の人間は魚介類を消費する自由を享受する機会に恵まれない。「リンゴはあくまでもリンゴである」という物の理(ことわり)に拘束されるのが、農村共同体の掟のようなものである。農村の人間は、一生涯、農村の人間として生きねばならない。「俺らこんな村いやだ~」と叫びたくなるのも当然だ。農村と漁村という異質の共同体を、交換と流通の回路の中で、結びつけ、なおかつ解体してゆくのが、「貨幣」という媒介物である。
貨幣という媒介物は、「リンゴはあくまでもリンゴである」というモノの拘束力からリンゴを解放してくれる。リンゴという交換価値は、貨幣という抽象の力の助けを借りて、大地の重力から逃れて、世界(市場)を浮遊しつつ移動することができる。貨幣の抽象性は貨幣の論理がインターナショナルなものであることを意味する。それに対して労働者の論理はナショナルなものである。そうであるがゆえに両者は衝突することになる。ドナルド・トランプを支持した製造業界の白人労働者層の反乱は、自分たちの環境としての論理(への郷愁)によるインターナショナルな貨幣への反乱(あるいは反動?)であった。
貨幣と近代思想
ところで、インターナショナルな貨幣の登場によって、近代的自我の内面が生まれたのだ、と論じた書物が中川久定の『自伝の文学――ルソーとスタンダール』である。貨幣の運動が農村共同体を解体してゆくことを確認しつつ、中川は内面の発生を次のように説明する。
貨幣による暴力的なまでのタブラ・ラサ。土地や階級の拘束を受けていた中世の人間は、近代において、ジョン・ロックのいう「白紙還元=タブラ・ラサ」によって、何者にも変身できる抽象人間と化す。近代の個人主義は貨幣から生まれた。芸術家にも政治家にも法律家にもなれる個人は、食料にも衣類にも貴金属類にも交換できる貨幣と同じというわけだ。「俺らこんな村いやだ~」と中世的封建共同体から東京へと逃走する田舎者は、貨幣の抽象的な運動をそっくり正確に模倣している。ただし近代前期においては、貨幣は、まだ古き良き時代の文化的制度に属していたと言える。中川久定が取り上げたスタンダールが唱えた「鏡の美学」と戯れることが、近代前期には可能だったのである。
近代前期から近代後期およびポスト近代への移行を、蓮實重彦は、複製装置としての写真における「ダゲレオタイプ」から「カロタイプ」への移行として位置づけた。『物語批判序説』において、蓮實は、言説の在り方を「ダゲレオタイプ」と「カロタイプ」の2種類に分類している。「ダゲレオタイプ」とは、鏡であり、その鏡は「真理」を映し出す特権的な「知」の装置である。蓮實は言っている。
鏡とコピー
ダゲレオタイプ的な知のことを、蓮實は、「預言者の言説」とも呼んでおり、それは唯一の真理を知っている特権的な預言者が、唯一の正統的な報告者として、真実の物語を統御するのだと語っている。
写真の初期形態としてのダゲレオタイプは、経済の分野においては、金(ゴールド)との交換可能性を保証する「兌換紙幣」としての貨幣に対応していると言えよう。金本位制において金(ゴールド)という唯一の価値を反映する鏡としての貨幣。コピーではなく、あくまでも金(ゴールド)との根源的なつながりを保証された(と思い込んでいる)神々しい存在としての貨幣。そのような貨幣の姿は、その特権を奪われる以前の「芸術」の姿によく似ている。
蓮実の『物語批判序説』は、フローベールを主要人物として取り上げ、フローベールは芸術が死んだ後の芸術家として言及されるわけだが、言うなれば、スタンダールがダゲレオタイプだとすれば、フローベールはカロタイプである。そしてスタンダールが「預言者の言説」を担っているとすれば、フローベールは「現代の言説」を担っている。
フローベールが活動した19世紀中盤から後半にかけた時代というのはなかなか興味深いものがある。過渡期の解体現象があまりにも生々しいからだ。そこでは芸術だけが死んだわけではない。古き良き時代の経済思想もそこでは死んだのである。
19世紀の経済学者は、自らの足の上に立ち、理性と知性で、世界を判断する市民としての個人を経済現象の根底において経済学を築き上げたが、そのようなダゲレオタイプな経済思想は、カロタイプな経済学者によって破産を宣告される。カロタイプな経済学者とは、ケインズのことである。ケインズの眼には、鏡ではなくコピーとしての貨幣のことがよく見えていた。「よし行くぞう」という貨幣の雄叫びが、健全な産業の育成という理知的な建設行為であることをはるかに超えて、「増殖のための増殖」へと向かう不吉な音響を響かせていることをケインズの耳は聞き取っていた。
カロタイプとは、別の言葉でいえば、ポスト・モダンと置き換えることが可能だ。鏡ではなくコピーとしての貨幣のことに言及しなければならないが、そのことは「『よし行くぞう』と貨幣は雄叫びをあげる(写真篇)」として別稿を立てたい。
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