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「このままだと一生〇〇のままだぞ」だなんて言わないけれど
どうも、ゑんどう(@ryosuke_endo)です。
我が家の長男くんは不登校。
これは散々書いてきたことなのだけど、ある人からこう言われました。
「ネタにしてるよな」
その人がそう述べた真意まではわからないのだけれど、その後の文脈も踏まえると「笑い話」としてネタにしてるよな、ということらしい。
「不登校」を耳目する機会は増えたし、世間的な認識を得ることにもなってきているだろうけれど、言っても全体の中で見たら少数派であることに違いありません。
その少数派ポジションをとっていることをいいことに、彼の不登校となっている状態を世間に晒し笑いを取ろうとしていると見られていることから、そういった発言を浴びせられることになったのでしょう。
そんなわけあるかい!
「不登校」って字面は、正直にいうと大嫌いです。
似たような言葉に「登校拒否」があります。
ぼくが小学校に在籍していた時に、大人たちが使っていたのは「不登校」ではなく「登校拒否」が多かったと記憶している。いや、それは新潟県燕市のような田舎に限定された話なのかもしれないが、少なくとも「不登校」といった言葉を現役小学生や中学生の頃に聞いたことはありませんでした。
現在、ぼくは在宅で仕事をいただきながら隣に座る長男くんとあーでもないこーでもないと話をしたり、学習の支援をすることもあれば、隣に座ってゲームをすることもあります。
不登校児童の将来を憂う気持ちはある
もちろん、彼の将来を心配しないことはありません。
学校に行けないことは仕方のないことではありますが、喜んで、楽しんで、ワクワクしながらして級友たちと交流をできるのであればやってほしいとは思うのです。
しかし、それができないからこそ当人も困っているし、その周りにいるぼくや妻さんのような大人も困っている。しかし、困っていると言い続けたところで状況が好転するわけではありません。この状況を受け入れた上で「どうするか」「なにができるか」を長男くん共々考えている、考え続けている日々が日常なわけです。
学習を独力で完結できるのであれば文句の言いようがありませんし、それであれば学びの場所として学校を利用することも必要ないでしょう。通信教育や各種学習ツールを利用する必要もありません。
妻さんも以前までは割と強硬的な態度でしたが、最近は随分と軟化してきて長男くんの不登校って状態を受け入れられているものの、少し心配と懸念、不安が入り混じってしまうと「一生」と言った言葉をぼくにぶつけてきたりします。
「一生〇〇のまま」だなんてことを当人にいいはしないものの、それをぼくにぶつけてくるってことからも彼女が抱いている心配や不安を感じるわけですが、そうはいってもぼくや彼女も「一生」が終わっていないのに一生〇〇で居続けるだなんて物言いは説得力がありません。
程度の差はあれど、ぼくも彼女も彼を大事に考えているからこそ、「できないこと」に焦点を当ててしまい憂いてしまうのです。
いくら心配をしても変わらないのはわかっている
いくら憂いたところで、彼の人生は彼のものです。
周りの人間から常に「心配だ」と声や態度で示され続けたところで、最終的に決断し行動するかどうかは彼が決めるべきでしょう。学校に行ったところで人生が明るくキラキラしたものになるわけではありません。
学校に行かないことで社会交流が断絶されるのかというと、最近はインターネットがありますから、いくらでも交流を持つ機会や場所に足を踏み入れることは可能です。
不意に足を踏み入れたことによって彼の人生に大いなる影響を与える存在に出会うことができるかもしれませんし、そう言った機会や場所に出会うことだって可能性としては十分にあります。
現在の平均寿命で考えてみても、彼の人生はぼくや妻さんよりも長いわけです。ぼくや妻さんが心配をしきれない30年ほどの余裕があり、過去30年間で時代は大きく変わっていることを前提にすると、その心配は杞憂だとすら言える気もします。
着実にできることが増えていますし、交流する大人の数や同年代の子どもたちとの交流に参加する機会があれば楽しんでいることもわかっています。
いつまでも我々が面倒を見れるわけでもなければ、見ることができる期間は限定的であることを自覚しているからこそ、心配や不安を抱いてしまうのでしょう。
しかし、そんなものをいくら抱いたところで状況に変化が生じるわけではありません。そんなことはわかっているのです。わかっているのですが、やっぱり心配になっちゃうんですよね。
ただ「挑戦する気持ち」を抱いてもらいたい
彼は恐竜に関わることを仕事やライフワークにしていきたいと考えているそうで、それは幼児期から変わることなく、ずっと言い続けていることです。
初志貫徹なのかどうかはわかりませんが、そうやって意志を保ち続けていることに対しては敬服します。
反面、それ以外のことに興味と関心を抱くことができていないのではないかとすら思ってしまうのです。
余計なお世話なのかもしれませんが、彼もあらゆる映像コンテンツを視聴してきているため、恐竜以外にも気になる事象や衝動を掻き立てる事柄に出会っているはずなのですが、それがぴくりとも揺らぎません。
それは当初、彼が将来の夢や目標見たいものを述べたことに対し、最も身近な大人である我々が褒め称えたことが鮮明に記憶されているからなのかもしれませんし、その褒めてもらえる、認めてもらえるといった認識がいつまでも更新されていないのかもしれません。
そこに対する罪悪感のような感情を抱いてしまうこともあり、他の事柄に目が向かない現状に対して、少し懸念と心配、不安を抱いてしまっているようにも思います。
ただ、ぼくとしては何でもいいから「挑戦すること」をなくしてほしくないんですよね。
些細なことでもいいんです。
自転車に乗れるように練習するってのもそうだし、自転車に乗って買い物に行くでも、自転車に乗って友人の自宅へ遊びに行くってのでもいい。とにかく、自分の認識と物理的な活動範囲を拡張していくことに挑み続けてもらいたい。
それができるよう、彼の安全基地として機能するようにしなければなりません。
もしかしたら、今は彼にとっての安全基地として機能不全を起こしているのかもしれないなぁ…と反省している次第です。
おわりに
まぁ、学校に行ったら行ったで心配や不安、懸念などは発生してくるでしょうから、心配したいだけなんでしょうね。わかってます。
絶望しているわけではありませんし、悲観的にものを見ているわけではないものの、彼に対して何かできている自己効用感が少ないからなのかもしれません。むしろ、きっとそうなんでしょうね。
どうやったら自己効用感を高められるのかを探ることから始めていきたいと思う所存です。
ではでは。
ゑんどう(@ryosuke_endo)
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![ゑんどう ≒ 遠藤 涼介](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/40756580/profile_6ff9ba76e9999163cbca7e1eb15e0ed1.png?width=600&crop=1:1,smart)