キューバ危機(1962年10月)の前に東宝と東映が描いた核戦争・第三次世界大戦
映画『オッペンハイマー』が国内の劇場で公開されて以降、複数の記事の中で海外(欧米)で制作された核兵器や被爆を描いた映画やドラマを紹介しましたが、日本国内においても、例えば、いつ核兵器が使用されても不思議はなかったキューバ危機(1962年10月)が起きた前年と前々年に、東映(第二東映)と東宝が(『原爆の子』『ひろしま』『長崎の鐘』『黒い雨』他とは趣きが異なる)作品を制作・公開しています。
日米安保条約(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力および安全保障条約)が改訂された1960年の秋に公開されたモノクロ映画『第三次世界大戦 四十一時間の恐怖』(1960年)は週刊新潮(1960年6月13日号)に掲載された特集記事「第三次世界大戦の41時間」を原案としているそうですが、核兵器を搭載した米軍機が朝鮮半島で爆発した事件から始まり、遂には米ソが全面核戦争に突入し、(当時の)世界の人口28億人のうち20億人以上が命を落として第三次世界大戦が終わるまでを、世界情勢の変化についてラジオ放送でのみ伝えながら(アナウンスとして関光夫(本名:小林光夫、NHKアナウンサーから映画音楽の解説者に転じた、日本のディスクジョッキーの草分けの一人)がクレジットされています。)、物語が展開します。日米安保条約に反対する論拠の一つであった米軍基地の存在が日本に対する核兵器による攻撃を招くという主張が色濃く反映されており、その通りになります。
梅宮辰夫と三田佳子が主役を務めましたが、終盤に登場する特撮場面は劇場映画のみならず(東映スーパー戦隊シリーズをはじめ)数多くのテレビ作品も手がけた矢島信男が担当しました。
翌1961年の秋に公開されたカラー映画『世界大戦争』(1961年)は、それに先立つ東宝の企画が東映(第二東映)の『第三次世界大戦 四十一時間の恐怖』(1960年)と同じ時期に構想され競合した結果、内容や脚本を一新する必要もあって、1年ほど遅れたようです。東宝の看板プロデューサーであった藤本真澄とゴジラの生みの親である田中友幸が製作し、東宝のドル箱・社長シリーズや『連合艦隊』(1981年)で知られる松林宗恵が監督し、円谷英二が特撮を、團伊玖磨が音楽を担当しました。内閣の動向や(特撮シーンを多用しながら)各国の軍事基地の様子も描かれ、制作に3億円を費やしたそうです。
フランキー堺、乙羽信子、宝田明、星由里子、山村聡、笠智衆、東野英治郎、他が出演した大作映画(昭和36年度・芸術祭参加作品)ですが、航海中の船で生き残った数少ない人々が『日本沈没』(1973年)並みに崩壊している日本へ向かうラストシーンには絶望しました。第三次世界大戦・全面核戦争は(角川春樹事務所とTBSが共同製作し、東宝が配給した)『復活の日』(1980年)のラストシーンのような希望の欠片すら残さないようです。
核兵器を保有するイスラエルが中東情勢を悪化させ、ロシアが戦術核兵器の使用をちらつかせる中、東西冷戦が深刻化していた60年以上前、作品が公開された当時の雰囲気を推し量る一助になるかもしれない上記二つの映画をお薦めします。
楽屋落ち(アワモリ君乾杯!)世界大戦争
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?