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「秘密の奥義を聞かされた人物がたどる死後の道が言及されているからだ」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.2.16)


はじめに

この『ブラフマ・スートラ』は論理聖典なのですが、大切なのはこの論理をただ読むということではなしに、この論理を生きるという形にて読ませていただく、そして、この論理を頭だけで整理することだけでなく感性でも感じ取ることが大切になると思います。

これは、今、この『ブラフマ・スートラ』註解書を翻訳するきっかけの一人である次女が遊びに来て目の前で座って焼き芋を食べていますが、彼女にはわからないままでも読むことで記憶の片隅には残ると伝えています。

心素(チッタ)に記憶として蓄えられるので、何らかのきっかけでその記憶を呼び起こすことになりますし、輪廻転生は幻想ですが、生まれ変わった時に思い出すということが間々あるからそれもありかなとも思っています。

シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第二章十六節

16節 そして、秘密の教えを聞いた者が従うべき道が語られているからである。

この追加的な理由から、目の中の人は神である。神々の道として知られるコースは、ヴェーダのテキストである「繰り返すが、感覚の制御、ブラフマカリヤ(不断の努力)、信仰、瞑想によって自己を探し求め、北の道を進んで太陽を征服する。このブラーフマンは、生きるものすべての拠り所であり、筆舌に尽くしがたいものであり、恐れを知らぬものであり、最高の目標(*10)であるのは、ここから戻ってくることはないからである」(Pr.I.10)でよく知られている秘密の知識を得たブラーフマンの知識を得たウパニシャッドを聞いた者がたどる。

(*10)goal:これは当初、宇宙および小宇宙の微細体と同一視されるヒランヤガルバの状態である。これも本質的には、不滅で、恐れを知らず、すべてを維持する絶対的なブラーフマンである。ですから、彼らはまず条件付きのものを悟り、それから絶対的なブラーフマンを悟るのです。

このことはスムリティでもよく知られている。「火の神、光、昼の時間、明るい二週間、この道をたどる北の太陽コースの6ヶ月、ブラーフマンを知る者はブラーフマンに行く」(Gita,VIII.24)まさにその道は、目の中のものを知る者のために宣言されていることがわかる。「葬儀を執り行うか否かにかかわらず、彼(自己の瞑想者)は火(の神に)到達し、(そして昼間などに沿って進む」と始まり、「彼は太陽から月へ、月から稲妻へと進む。ヒランヤガルバの世界からやってきた超人的な存在が、そこ(すなわち稲妻)に到着した者をブラーフマンへと導く。これが神々の道であり、これがブラーフマンへの道である。この道を進んで(条件付きのブラーフマンに)到達した者は、この生と死のサイクル、このマヌの創造に戻ることはない」(Ch.IV.xv.5)と言われている。ブラフマンを知る者がたどるよく知られた道についてのこのすべての話から、目の中のものがブラーフマンであることが証明される。

最後に

今回の第一篇第二章十三節にて引用されている『プラシュナ・ウパニシャッド』と『バガヴァッド・ギーター』を以下にてご参考ください。

しかし、北方への道では、苦行により、梵行により、信仰により、学識によってアートマンを追求したのち、太陽をみずからの住処とする。それこそ諸々のプラーナの行く道であり、それは不死であり、無畏であり、最高の拠りどころである。そこから、人は二度と再び還ることはない。すなわち、それは再生を絶つことである。...

(Pr.I.10)岩本裕訳

火、光、昼、白く輝く半月、太陽が北に向かう六ヶ月。そこにおいて死去した絶対者ブラーフマンを知る者たちは絶対者ブラーフマンに達するのだ。

(Gita,VIII.24)

「そして、[このように知る者が死んだときに]人々が彼のために葬式を行うと行わないとにかかわらず、彼は火葬の焔に入る。焔から昼に入り、昼から月のみちる半月に入り、月のみちる半月から太陽の北上する六ヶ月に入り、この六ヶ月から歳に入り、歳から太陽に入り、月から稲妻に入るのである。すると、祖霊のプルシャが、

彼をブラフマンの許に行かせる。これが神の道であり、ブラフマンの道である。この道を通って行く者は人間界の混乱の中に還ることはない。二度と還ることはないのだ」と。

(Ch.IV.xv.5-6)岩本裕訳

今回の十六節を要約すると

そして、秘密の奥義を聞かされた人物がたどる死後の道についても言及されているからである。

となり、死後の道の到達点がブラーフマンだと言及されているということは、そのような死後の道をたどることを良しとするならば、そのことをそのように今の時間を生きるという生き方になるだろうし、また、もしそれが違うということ、まずいとなれば違う生き方を生きるという、信仰の読み方をするならば、このような解釈になるのかもしれません。

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