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「内なる支配者はブラーフマンである」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.2.18)


はじめに

今回に引用された『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』のくだりに関して、ごく簡単にお話し致しますと

第三篇のヤージナヴァルキァ対話篇は、ヴィデーハ国のジャナカ王がクル族とパンチャーラ族に属する多くのバラモン行者(ブラーフマナ)に対して「この中で一番学識がある者へ、千頭の雌牛とそれぞれの牛の角に十パーダ(約十グラム)の金貨を一枚ずつくくりつけておくので、これらの牛を家まで引いてお帰り下さい」と告げたことから始まります。

ヤージナヴァルキァ師が弟子に「これらの雌牛を引いて行きなさい」と命じると、並み居る論客たちがヤージナヴァルキァ師に論争を挑むことによって、ブラーフマンの智慧を解説するという形態をとっています。

今回の七章は、アルナ師の息子であるウッダーラカ師がマドゥラ国においてカピ師の家系に属するパタンチャラ師のお宅にて護摩供養祭について学んでいた時、師の妻がガンダルヴァ鬼に取り憑かれ、「お前は誰だ?」と問いただした際の会話となります。

ウッダーラカ師は、ヤージナヴァルキァ師が内制者も知らずしてブラーフマンを知る者だけに与えられる牛たちを持ち帰るならば、あなたの胴体から頭は離れ落ちてしまうはずだが本当に知っているのか?

と問われたことに対して、ヤージナヴァルキァ師が論説を繰り出すことによってウッダーラカ師は沈黙することになります。

シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第二章十八節

表題:内部の支配者

18節 神およびその他の文脈における内部の支配者は(至高の自己です)、その(至高の自己の)特徴が語られているからです。

疑問:ウパニシャッドでは、「現世と来世とすべての存在を内側から支配する者」(Br.III.vii.1)に始まり、「(彼は)大地に住んでいるがその内側にいる者であり、大地が知らない者であり、その肉体は大地であり、大地を内側から支配する者であり、内なる支配者、あなた自身の不滅の自己である」(Br.III.vii.3)と述べられている。ここでは、神々、世界、ヴェーダ、生け贄、生き物たち、そして肉体という文脈の中で、私たちは内なる支配者という存在を耳にする。その支配者は、神や他の文脈のものと同一視している神聖な存在なの?あるいは精妙になるなどの神秘的な力を獲得したヨーガ行者なのか?あるいは至高の自己なのか?あるいは他の実在なのか?この疑問は、この独特の用語(アンタルヤーミン)に気づくことから生じる。では、私たちに受け入れられる真の意味は何なのだろうか?

反論相手:この用語が一般的でない以上、命名される実在も一般的でない不確定なものであるべきだ。あるいは、他の不確定なものの存在を主張することは不可能であり、内部から支配するという(語源的な)論理的な意味を伝える内部支配者という用語はまったく馴染みがないものではないので、大地などと同一視する神が内部支配者であるに違いない。これと一致するのが、「(その存在を知る者は真に知っている)その住処が大地であり、その視覚の道具が火であり、その光が人(の心)であり、(そして、肉体全体と器官の究極的な拠り所である)」(Br.III.ix.10)というテキストである。肉体と器官を持ち、大地の中などに居住して支配しているのだから、この支配権は正当に神聖な存在に属することができる。あるいは、この支配権は、すべての中に入り込んで支配する完成されたヨーガ行者に属することもできる。しかし、至高の自己は私たちの視野には入らない、それは肉体や器官を持たないからだ。

ヴェーダンティン:このような立場から次のように言われています。神やその他の文脈で聞かれる内部の支配者は、至高の自己であり、それ以外の何者でもありません。

なぜですか?

「なぜなら、その特徴が語られているからであり、至高の自己そのものの特徴がここに述べられているからである。それは、神聖なもの(世俗的なもの、ヴェーダ的なもの)などに分化した大地や他のものの中に入ることによって、すべての創造されたものを支配するという事実から明白になり、至高の自己の特徴的な支配力である。なぜなら、至高の自己は、すべての創造の源であることによって、合理的に全能を持つことができるからである。そして、「これが内なる支配者であり、あなた自身の不滅の自己である」(Br.III.vii.3)で言及されている自己性と不滅性は、主要な意味で理解される至高の自己の場合に正当化される。「大地が知らぬ者」(同上)というテキストで、内なる支配者は大地の神には知られていないとすることで、内なる支配者は神の存在とは異なることが示されている。というのも、大地の神は自分自身を「私は大地である」と知ることができるからである。同様に、「観られない」、「聞かれない」(Br.III.vii.23)という言葉が使われるのも、至高の自己には形がないことなどに合致する。至高の自己には肉体と器官がないために、至高の自己がいかなる支配権も持ち得ないという反論は成り立たない。というのも、至高の自己が支配する者に肉体や器官が存在するのは、至高の自己が肉体や器官を所有するようになるからである。この見解では、個別の存在の支配者に対して別の支配者を想定しなければならないことによって、無限後退に陥ることはない。無限後退は、違い(*11)がある場合にのみ可能なのである。

(*11)difference:支配の問題は、経験的な差異という観点から生じる。現実には、ブラーフマンは個人とは異なっておらず、それゆえ支配権や無限後退の問題は生じない。また繰り返しになるが、経験的に、神は絶対的な支配者として認識されている。神の上に別の支配者を想定することは、ヴェーダを無視することである。

最後に

今回の第一篇第二章十八節にて引用されている『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』を以下にてご参考ください。

...するとガンダルヴァ鬼は、またもやパタンチャラ師とその下で護摩供養を学ぶ私たちに向かって「カピの子よ。汝はこの世と次の世と全ての生類とを全てつなぐような経線(スートラ)をご存じか?」と尋ねてきたのです。パタンチャラ師は「ガンダルヴァ鬼よ、私はそのような経線は知りません」と答えました。するとガンダルヴァ鬼は、またもやパタンチャラ師とその下で護摩供養を学ぶ私たちに向かって「この世と次の世と全ての生類とを内部から制御しているがごときの内制者(アンタルヤーミン)を知っているか?」と尋ねてきたのです。...

(Br.III.vii.1)

ヤージナヴァルキァ師が言った。
「内制者(アンタルヤーミン)とは、大地(プリットヴェイ)の中に住まいして尚かつ大地自体の内奥に存在しており、大地もその内制者を知ることがなく、しかも内制者が大地自体であり、その内部より大地を制御している存在なのであり、あなたの不死なる真我(アートマン)なのである」

(Br.III.vii.3)

ヴィダグダ師が問うた。
「その体は大地であり、その眼は火であり、その光は意思(マナ)であるような真我(アートマン)が存在し、この真我があらゆる体と器官を支えるものであることを悟っている者は真の覚者だと言えると思うが、如何でしょうか?ヤージナヴァルキァ師よ」

ヤージナヴァルキァ師が言った。
「私は、あなたの言われるあらゆる体と器官とを支えるものたる真我を知っている。この体の中に住まいされるものが、これ(真我)なのである。シャーカラ族の子よ、さらに質問しなさい」...

(Br.III.ix.10)

...この内制者(アンタルヤーミン)は被観照者(観られる者)ではなく、観照者(観る者)である、聞かれる者ではなく、聞く者である。思われる者ではなく、思う者である。この内制者以外に観る者はなく、聞く者もなく、思う者もなく、知る者もいない。これが内制者であり、あなた自身の真我(アートマン)であり、不死なる存在なのである。この内制者以外はすべて限りあるものなのである...

(Br.III.vii.23)

今回の十八節を要約すると

神々はもちろんのこと、種々の事物に内在して支配しているのは、そこにブラーフマンの性質が認められるが故に、ブラーフマンなのだ。

つまり、底支えしている、または、全体を包み込んで支配しているのがブラーフマンであり、そういった実在がいるということなのですが

この実在のことを聞きそれを論理的に聞くだけの人もおられるでしょうし、その実在を大切なものとして生きるという信仰を持たれる人もおられるでしょうし、そもそも、一生の内に聞くこともない人もおられるかもしれません。

もしくは、ブラーフマンが実在されておられるのなら、真に、ブラーフマンに行き着くように生きてみたいと思って生きる人もおられることと思われます。

このことは、以前に記述されたように、その人その人の決心が段階的に分かれてくるのだろうと思います。

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