「智者(アートマン)たる食べる人とはブラーフマンである」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.2.10)
はじめに
九節と今回の十節にて引用されている『カタ・ウパニシャッド』とは、古ウパニシャッドの中では中期に分類され、死神ヤーマがナチケータス青年に対して「解脱」や「ブラーフマン」について説くという対話となっています。
すでに亡くなっているナチケータス青年が死神ヤーマに、死者への疑問として、ある人々は彼は居ると言いまた別の人々は彼は居ないと言うがそのことについて知りたいと食い下がる。
はっきり言えば、そのことを知られてしまうと死神の仕事が要らなくなってしまうので、あれこれと普通の人なら喜んで妥協する提案をするのだがナチケータス青年は決して譲らない。
仕方なく、訥々と死神ヤーマが語り出すという比較的短いウパニシャッドになります。
その対話から心理学の元祖と知られる「人間馬車説」を説くわけですが、これは、解脱に至る道のりを、暴れ馬のように不安定な感覚器官と運動器官をしっかりと制御し、至高の自己を宿す肉体を馬車として、内的心理器官を至高の自己にゆだねて真のゴールとなるブラーフマンへ向かって往く旅路を喩えたものとなります。
シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第二章十節
10節 そしてテキストから(これは導き出されます)。
この追加的な理由から ここで食べる人となり得るのは、至高の自己だけである。なぜなら、今回の表題は「悟りを開いた(あるいは知っている)者は生まれることもなく、死ぬこともない」(Ka.I.ii.18)から始まることからして、至高の自己である。そして、この文脈の主体を構成する実在は、食べる人として受け入れられるのが適切である。
「どうしてこのように知ることができるのか」(Ka.I.ii.28)で述べられているように、(自己を)「知る」ことについての困難もまた、至高の自己を指し示すものである。
最後に
今回の第一篇第二章十節にて引用されている『カタ・ウパニシャッド』を以下にてご参考ください。
今回の十節を要約すると
九節に述べられていることに加えて、ブラーフマンが(カタ・ウパニシャッドの中で)議論の対象になっているからだ。
となっているのだが、正直、これだけだと、まだまだ、論理的な説明が構築されていないのは否めないけれど、これからの論理展開を気長に待つとしましょう!
しかし、当時はこの「食べる人」の意味がよくわからなかったが、この“note”にてようやく腑に落ちました。