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「ブラーフマンは天の中?それとも天の上に存在するのか?」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.27)


はじめに

この『ブラフマ・スートラ』を解説しているシャンカラ師は、無智さによってこの世界に対しての解釈および理解が誤っていることを、少しずつタマネギの皮を剥ぐようにして正しつつ、ブラーフマンの智慧を伝えていると言えます。

しかし、その智慧を誰かに伝えるとき、その人にとって、病気になった時の薬や手術のように治癒するとか、または、成功哲学やポジティヴシンキングのような自己啓発(潜在意識の活用なども含めて)における物理的な豊かさをもたらさないどころか、人間関係が危ぶまれることがあることを十分ご注意してください。

この智慧つまり真理は、その人を含めた私たちの間違った大元の決断には対処できないからです。

このことがわからずに(先生はあれこれとさまざまな視点からお伝えくださったのにもかかわらず)、学んだ智慧を盾にして戦った私の失敗から是非学んでください。

この智慧をまず自分のものとして、やすらいだ心の状態を身につけてください。つまり、ブラーフマンのみを原因にすることで何をすることなく自然とやすらいでいきます。そして、ブラーフマン以外を原因としている(支えとしている)ことごとを簡単にできるところから手放していくことで、その結果に翻弄される現象から自由になってください。

この世界において、一番難しいことになりますが、カギは簡単なできるところから始めてその結果の体験を励みに継続されることを願っています。

シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第一章二十七節

27節 もし、教えが異なるという理由で、(以前のテキストの)ブラーフマンがここで言及されていないと主張されるなら、私たちは、「いいえ、どちらの場合にも矛盾はないからです」と言います。

そして、「不滅である彼の三本の脚は天にある」(Ch.III.xii.6)という以前のテキストでは、天という単語は位置格で使われ、居住地を示しているのに対し、ここでのテキスト「この天の上に輝く(光)」では、「天の上」という省略格で使われる単語は限定を示すという批判が展開された。したがって、この(指示の)形式の違いにより、以前のテキストのブラーフマンはここでは想起されない。その批判に応えなければならない。

これに対して私たち(ヴェーダンティン)は言う。それは有効な反論ではない。どちらの場合にも矛盾はないからです。どちらの場合にも、指示の語尾が位置格であろうと、(天の後の)終止形であろうと、同一視には何の問題もない。一般的な用法では、木のてっぺんにいるタカを「木のてっぺんのタカ」または「木のてっぺんの上にいるタカ」と呼ぶように、ブラーフマンは天に存在するにもかかわらず、その上に存在すると教えられている。また、こうも言う。タカが木のてっぺんにいるのではなく(木の上を舞っている)ので、「木のてっぺんのタカ」あるいは「木のてっぺんの上にいるタカ」と呼ばれるように、ブラーフマンは天の上に存在するが、天の中に存在すると教えられている。だから、先のテキストで言及されたブラーフマンは、ここ(後のテキスト)で言及されていることをよく認識することができます。したがって、至高のブラーフマンそのものが光によって言及されていることが証明される。

最後に

今回の二十七節にて引用されているウパニシャッドで持っている資料を以上にてご参考ください。

その偉大さはこのようであり、プルシャはそれよりさらに大である。一切の存在はその足であり、天井における不死はその三つの足である、と。

(Ch.III.xii.6)岩本裕訳

今回の二十七節を要約しますと

前に述べられていたブラーフマンに関する記述は、それぞれに異なっていることを述べられているので、ブラーフマンについて語られていないのではないかという主張に対して、私たちヴェーダーンタ学派はそうは思わない。それというのも、今までの記述の解説に矛盾はないからです。

つまり、ウパニシャッドに述べられていることには矛盾はない、としています、

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