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「サナトクマーラ師が無限なるもの(ブーマン)とはブラーフマンだと述べている」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.3.8)


はじめに

ヴェーダーンタ哲学の智慧もヨーガという技術も同様に、生徒に対しての教授法としては極めて不親切というか(伝統的な教えはそういうものですが)、生徒が理解できないのは智慧を働かせていないからみたいなところが多々あり、この『ブラフマ・スートラ』シャンカラ註解書もあらかじめウパニシャッドといった天啓聖典は読み込んであり暗記していて、かつ、明確に解脱を人生の目的にしている生徒を前提として教授しているのが明白です。

今回の節は、特に、その傾向が強いと思われるので「最後に」のところで要約として極簡素でありますが補足をさせていただきましたのでご参考ください。

今回に登場する「アグニホートラ」とは、厳格な儀式に従って神聖な火にギーを捧げるヤジュナを指し、この伝統はヴェーダ時代にまで遡りバラモンはリグ・ヴェーダの詩を唱えながら「アグニホートラ」の儀式を執行します。

お師匠様を讃える「グル・プージャ」や「聖糸式」そして「聖名拝受式」などにおいても「アグニホートラ」を執行しています。

シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第三章八節

表題2 ブーマン(無限なるもの、豊富なるもの)

8節 ブーマンは至高の自己であるのは、サムプラサーダ(すなわちプラーナまたは生命力)よりも上位であると教えられているからだ。

疑問:これはウパニシャッドに「(サナートクマーラは言った)“しかし、ブーマン(無限なるもの)は必ず探究されなければならない”(ナーラダは言った)“尊き師よ、私は無限なるものを理解したいと切望しています”」(サナートクマラは言った)「それは、人が他の何も見ず、他の何も聞かず、他の何も知らない無限のものである。そして、それは、人が他の何かを見るところでは限られている”」(Ch.VII.xxiii-xxiv)などと述べられている。ここで疑問が生じる。プラーナはブーマン(無限なるもの)なのか?それとも至高の自己がそうなのか?

なぜ疑念が生じるのか?

ブーマンという言葉は豊富なるものを意味する。スムルティ(つまりパーニニの文法書)には、「ブーマン(bhuman)という言葉は、bahu(多くの、多数)という語の後に接尾辞imanが付加され、接尾辞のiが脱落し、bhuがbahuに置き換えられる(bahuの抽象的な対格が生じる)」(VI.iv.158)と記載されている。スムルティでは、ブーマンという単語に接尾辞を付けて抽象名詞の意味を持たせていると述べている。その豊富の性質についての好奇心が生じたとき、「プラーナは確かに希望よりも偉大である」(Ch.VII.xv.1)というテキストから、プラーナは近接性のゆえにブーマンであることが明白になる。同様に、この話題が次のように「あなたのような立場の人から、自己を知る者が悲しみを越えることを確かにわたしは聞いています。尊き師よ、私はこのように悲しみに暮れています。どうかこの悲しみ(の彼岸)を渡らせてください」(Ch.VII.i.3)と導入されていることからブーマンが至高の自己であることがわかります。この二つのうち、どちらを受け入れ、どちらを拒否するかは疑問の余地があるがここでの結論はどうなるのだろうか?

反論相手:結論としては、プラーナはブーマンである。

なぜですか?

なぜなら、(一連の)質問と回答は、より偉大なもの(bhuyan)に関するものであることが注目されるからです。たとえば、(ナーラダによって)「尊き師よ、名前よりも偉大なものはありますか?」(Ch.VII.i.5)と、(サナトクマーラ師による)答えは「発語器官は確かに名前よりも偉大なものです」(Ch.VII.ii.1)となる。同じような(質問)で、「尊き師よ、発語器官よりも偉大なものはありますか?」(Ch.VII.ii.2)と、「心は発語器官よりも確かに偉大なものです」(Ch.VII.iii.1)(の答え)も同様です。ここでは、名前などからプラーナまで、一連の質問と回答が続いている。しかし、プラーナの後には、「尊き師よ、プラーナよりも偉大なものはありますか?」や「そのようなものは確かにプラーナよりも偉大なものです」という形の質問と回答は見当たりません。しかし、テキストでは、「プラーナは確かに希望よりも偉大である」(Ch.VII.xv.1)で始まり、プラーナは名前などから数えてすべてのものの中で最も偉大なものとして詳細に語られ、希望で終わっている。

そして、テキストでは、「(もし彼に)“あなたの言論はすべてを超越しています”と言われたら、“はい、超越しています”と言い、否定してはならない」(Ch.VII.xv.4)と、プラーナを悟った者には、言論において他のすべてを超越する力が生じる(つまり、彼の主張を最終的なものとして確立する)ことが認められていまる。最後に、「しかし、真実の助けを借りて言論において他のすべてを超越する人は、確かに言論で他のすべてを超越します」(Ch.VII.xvi.1)と言われ、ここでは、他のすべてのものを超越することからなるプラーなの誓いが暗示されています。そして、プラーナを捨てることなく、ブーマンは真実とその他(the rest)の連鎖を通じて導入される。これらすべてから、テキストはプラーナ自体をブーマンと見なしていることが明らかである。

反論:プラーナをビーマンと説明した後で、ブーマンの特徴を述べている「他には何も見えないもの」(Ch.VII.xxiv.1)などのテキストをどのように説明するのか?

反論相手:答えはこうだ。その定義、すなわち 「他には何も見えないこと」はプラーナにも当てはまる。というのも、すべての器官がプラーナに融合される深い眠りでは、見るというようなすべての活動が停止することは経験上明らかだからである。 このように、(プラシュナ)ウパニシャッドもまた、「この人は聞くこともなく、見ることもない」(Pr.IV.2)というテキストの中で、睡眠状態について、器官のすべての活動が融合された状態であると述べ、そして、まさにその状態においてプラーナの不眠を五重の機能とともに示し、「この都市(肉体)で目を覚ましているのは、プラーナ(*6)の火である」(Pr.IV.3)と述べ、これは、睡眠状態がプラーナによって支配されていることを示している。「ブーマンであるものは至福である」(Ch.VII.xxiii)のブーマンに関連する幸福の言及も(プラーナと)矛盾しない。というのは、眠りの状態における至福について次のように語っているからだ。「その状態では、神は夢を見ない。その時、肉体にこのような幸福が起こる」(Pr.IV.6)「ブーマンであるものは不滅である」(Ch.VII.xxiv.1)というテキストもまたプラーナと矛盾するものではない。ウパニシャッドのテキストには 「プラーナは確かに不滅である」(Kau.III.2)とあるからである。

(*6)Prana:ガールハパトヤ祭火はアパーナ、アンヴァーハールヤ=パチャナ祭火はヴィヤナ、アーハヴァニーヤ祭火はプラーナである。(Pr.IV.3)

反論:プラーナがブーマンであると仮定した場合、「自己を知る者は悲しみを越える」(Ch.VII.i.3)というテキストから明らかなように、自己の実現への願望という観点からこの話題を取り上げることを、どのように正当化するのか?

反論相手:私たちは、プラーナそのものが自己を表すことを目的としていると言っている。そのため、プラーナは、「プラーナは父であり、プラーナは母であり、プラーナは兄弟であり、プラーナは姉妹であり、プラーナは教師であり、プラヴァはブラーフマンである」(Ch.VII.xv.1)ですべてと同一視されていると示されています。広大さという意味でのプラーナとブーマンの同一性は、プラーナがすべてと同一であるという言及、テキストのスポーク(輻)と轂の例えとなる「輻が轂の上に固定されているように、これらもすべてプラーナの上に固定されている」 (Ch.VII.xv.1.)からも可能である。したがって、プラーナはブーマンであるという結論に達する。

ヴェーダンティン:したがって、次のように述べられている。至高の自己のみがここではブーマンでなり得るのであり、プラーナではない。

なぜか?

それは、至高の自己がサンプラサーダより優れているという教えのためです。サンプラサーダとは、人が完全に静穏になる状態という派生的な意味から、深い眠りを意味します。これはBrhadaranyakaでも確認されており、覚醒と夢の状態(IV.iii.15-17)とともに述べられている。そして、プラーナはその完全な平静の状態で目覚め続けているので、この格言ではプラーナがサンプラサーダの意味として受け入れられている。したがって、(格言によって)暗示されている考えは次のとおりです。「ブーマンはプラーナより優れていると教えられているので、もしプラーナそのものがブーマンであるならば、それ自身への優越性に関する教えは矛盾するでしょう。例えば、何かが名前より優れているという指示が与えられるとき、名前自体が名前より優れているということは暗示されない」

では、何が優れていると教えられているのか?

「発語器官は確かに名に勝る」(Ch.VII.ii.1)では、名前とは異なるもので、発語器官と呼ばれるものが教えられている。同様に、発語器官からプラーナに至るまで、すべての(後続の)段階で、それぞれの(以前の)もの自体とは異なるいくつかのものが優れていると教えられている。同様に、プラーナより優れていると教えられるブーマンは、プラーナ以外の何かでなければならない。

反論相手:しかし、ここでは「尊き師よ、プラーナより高いものはありますか?」というような質問はありません。また、「そのようなものは確かにプラーナよりも偉大である」という形の答えもありません。では、どうしてブーマンがプラーナより高いと教えられると言えるのか?さらに、それに続く一節では、プラーナに頼ることによって、言論において超越する(つまり、自分自身の結論のみを確立すること)について言及している。「しかし、真理に頼ることによって超越する者は、その言論において本当に他のすべての者を超越するのである」(Ch.VII.xvi.1)それゆえ、プラーナより高いものはないと教えられている。

ヴェーダンティン:これに関して、私たちは次のように言います。プラーナそのものに頼ることによって言論を超越することを言及しているとは断言できない。というのも、「真理に頼ることによって言論を超越する者」(同上)には、(真理についての)具体的な言及があるからである。

反論相手:その具体的な言及もプラーナに言及すべきではないか?

どのようにですか?

「真実を語る者こそアグニホートラの真の執行者である」という文と同じように、人は真実であるからアグニホートラの執行者になるのではありません。

では何によってか?

アグニホートラそのものの執行によってです。しかし、真実であることは、アグニホートラの執行者の特別な資格として言及されています。同様に、「しかし、真理に頼ることによって超越する者は、言葉において本当に超越する」という文では、言論における超越は、真実性から生じるのではない。

では何から生じるのか。

考慮中のプラーナの智識からです。しかし、真実性はプラーナを知る者の特別な資格として意図されている。

ヴェーダンティン:私たちはいいえと言う。なぜなら、それはウパニシャッドの意味を放棄することにつながるからである。ウパニシャッドの直接のテキストから、言論における超越は真理への信頼から生じることは明らかであり、その意味は「しかし、真理に頼ることによって超越する者は、言論において本当に超越するのである」である。ここにはプラーナの智識についての宣言はない。プラーナの智識は、文脈の助けを借りてのみおそらく持ち出すことができるかもしれない。しかし、もしそうすれば、直接のテキストは文脈(*7)によって覆されることになる。そして、この解釈に基づけば、「しかし、彼は本当に言葉を超越する」(同上)のように、これから議論される内容の前にあることを区別するためにtu(しかし)という言葉を使うことは正当化できない。また、「しかし、真理は探究されなければならない」(Ch.VII.xvi.1)というテキストは、さらなる努力を意味しており、(プラーナ以外の)新たな主題が(「真理」という言葉によって)導入されることを意図していることを示唆している。

(*7)context:それは認められません。直接的なテキストは「satyena - 真理に頼ることによって」である。直接的な声明(statement)は、文脈による推論よりも権威がある。

したがって、一つのヴェーダの熟達が議論されているときに、ある人が「しかし、彼は4つのヴェーダを読む本当に偉大なブラーフマナ(バラモン)です]と言うとき、その賞賛は、一つのヴェーダを知る者とは異なる四つのヴェーダを知る者に関係する。さらに、問答(質疑応答)の新鮮さだけで、新しいことを語ろうとする意図がくみ取れるというような決まり(rule)はない。

(*8)answers:というのは、ブリハッド・アーラニャカでは、マイットリーがヤージなヴァルキァに同じ自己について繰り返し質問しているのが見られるからです。また、ヴェーダを知る者たちの比喩では、問答(質疑応答)の助けを借りずとも、主題は変化する。

というのは、新しい主題の意図は、すでに到達した範囲内にとどまることが不可能になったときに理解できるからである。議論中の文脈(Ch.VII.xv-xvi)では、プラーナまでの教えを聞いた後、ナーラダは沈黙する。そして、サナートクマーラは自ら彼に次のように説いた。変幻自在で非現実的なプラーナの智識に頼って言葉を超越することは、実際には超越ではない。「しかし、真理に頼ることによって超越する者は、その言論において他のすべてを本当に超越する」そのテキストでは、至高のブラフマンは真理(サティヤ)という言葉で意味されている。なぜなら、それが最高の実在であり、また別のウパニシャッドに「ブラフマンは真理であり、智識であり、無限である」(Tai.II.i.1)と述べているからである。このように悟りを開き、「尊き師よ、私は真理に頼ることによって、自分の言論においてあらゆるものを超越したいのです」(Ch.VII.xvi.)と答えたナーラダに対して、サナトクマーラは、深い瞑想などの一連の実践を通してブーマンを教えた。

(*9)etc:Ratnaprabbaéは、ヴィジュナーナをニディディヤーサナ(深い集中)と解釈し、「その他」をマナナ(内省・熟考)、信仰、シュラヴァナ(聴聞)、純粋な心、不動心、そして、これらを達成するための努力と解釈している。

そうであるならば、プラーナ(in Ch.VII.xvi)よりも高位であるものとして語られることが約束されている真理そのものが、ここ(in Ch.VII.xxiii)ではブーマンとして言及されていることが理解される。それゆえ、プラーナより優れたものとしてのブーマンについての指示が生じる。そして、このように、自己の智識という目的からこの話題を始めたことは正当である。さらに、ここでプラーナそのものが自己として意図されているというのは合理的ではない。なぜなら、プラーナは主要な意味で自己ではあり得ないからだ。さらに、自己の認識以外から悲しみを止めることはできず、別のウパニシャッドでは、「(自己だけを知ることで人は死を超える)目標に到達する道は他にない」(Sv.VI.15)と宣言しているからだ。そして、「尊き師よ、このような私を悲しみを越えて連れて行ってください」(Ch.VII.i.3)で始まり、「崇高なサナートクマラは、すべての執着を拭い去った者に、闇の彼岸を見せ給う」(Ch.VII.xxvi.2)で結論が下される。闇(タマス)という言葉は、無智、悲しみの源などを意味している。そして、もしこの教えが本当にプラーナを最高位とすることで終わるのであれば、このプラーナが他の何かに従うと宣言されることはなかっただろう。しかし、ブラブマナのテキストは、「自己からプラーナが生じる」(Ch.VII.xxvi.1)と続く。

反論相手:至高の自己は、文脈の最後(Ch.VII.xxvi)で扱われることを意図しているのかもしれませんが、ここでのブーマンはプラーナに他なりません。

ヴェーダンティン:いいえ、なぜなら「尊者よ、彼(すなわちブーマン)は何の上に座しているのか?“ご自身の栄光の上に”」(Ch.VII.xxiv.1)などのテキストによって、ブーマンは、この話題の最後まで引き継がれている。そして、無限性の特徴は、豊富(広さ)として表現され、至高の自己の場合には、さらによく当てはまります。なぜなら、それがすべての源だからです。

最後に

今回の第一篇第三章八節にて引用されている『チャーンドギヤ・ウパニシャッド』と『プラシュナ・スートラ』そして『シュヴェターシュヴァタラ・ウパニシャッド』を以下にてご参考ください。

確かに、生気(プラーナ)は希望よりも偉大である。あたかも、車輪のスポークが中心の丸い部分である轂(こしき)に固定されているように、まさしく一切は、生気によって固定されている。生気は呼吸によって動き、呼吸は生気を与え、生気に呼吸を与える。父母は生気であり、兄弟姉妹は生気であり、賢者(師匠)も生気であり、バラモン(ブラーフマナ)も生気である。

(Ch.VII.xv.1)

「尊きお方様!教えていただきたい!」と言って、ナーラダはサナトクマーラ師の近くに座った。サナトクマーラ師はナーラダに「お前が知っていること、それと共に、私の近くに座れ。それを超えていることを、私はお前に話してあげよう」と言った。

(Ch.VII.i.1)

「尊きお方様。私は、リグ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダ、第四のものとしてアタルヴァ・ヴェーダ、第五のものとして古い物語と伝説、ヴェーダの中のヴェーダ(文法)、祖霊についての教え、算術、占い、宝探し、対話術、独白術、神々についての教え、ヴェーダの儀式についての教え、鬼神論、支配についての教え、占星術、蛇と半神(羅刹)についての教えを学んでいます。これらをすべて私は学びました」

(Ch.VII.i.2)

私はマントラを知っています。しかし、真我(アートマン)を知りません。実は、あなた様に等しい方々から「真我を悟った者は悲しみを超える」とお聞きしています。尊きお方様。私はここで悲しんでいます。私を悲しみの彼岸(パーラ)にわたるようにさせてください」とナーラダが言った。サナトクマーラ師が言った。「まことにお前が学んだものは何であれ、これは名称(ナーマ)にすぎない」

(Ch.VII.i.3)

「…お前は名称について瞑想しなさい」

(Ch.VII.i.4)

(サナトクマーラ師)「名前をブラ-フマンとして瞑想する者は、名称の及ぶ限りのところまでの者となる」「尊きお方様。名称よりも偉大なものは存在しますか?」(と、ナーラダが尋ねた)「確かに、名称よりも偉大なものは存在する」(と、サナトクマーラ師が答えた)「尊きお方様。それを私に話してください」(と、ナーラダが言った)

(Ch.VII.i.5)

(サナトクマーラ師)「まことに、言葉は名称よりも偉大である。...お前は言葉について瞑想しなさい」

(Ch.VII.ii.1)

(サナトクマーラ師)「言葉をブラーフマンとして」瞑想する者は、言葉の及ぶ限りのところまでの者となる」「尊きお方様。言葉よりも偉大なものは存在しますか?」(と、ナーラダが尋ねた)「確かに、言葉よりも偉大なものは存在する」(と、サナトクマーラ師は答えた)「尊きお方様。それを私に話してください」(と、ナーラダが言った)

(Ch.VII.ii.2)

(サナトクマーラ師)「まことに、意思(マナ)は言葉よりも偉大である。...お前は意思(マナ)について瞑想しなさい」

(Ch.VII.iii.1)岩本裕

なぜならば、生気こそこれら一切のものであるからである。このように観察し、このように思考し、このように認識する者は、雄弁な人となる。もし人々が彼に、「あなたは雄弁な方ですか」と言うならば、「私は雄弁である」と言うべきである。それを否定すべきではない。

(Ch.VII.xv.4)岩本裕

(サナトクマーラ師)「しかし、真実でもって雄弁に語るものが実に討論に勝利を得るのだ」(ナーラダ)「尊師よ、わたくしは真実でもって雄弁に語りましょう」と。(サナトクマーラ師)「しかし、真実こそ認識しようとされるべきである」と。(ナーラダ)「尊師よ、わたくしは真実を認識したいと思います」と。

(Ch.VII.xvi.1)岩本裕

「人が他のものを見ず、他のものを聞かず、他のものを認識しないところはどこでも、それが無限なるものである。しかし、人が他のものを見て、他のものを聞き、他のものを認識するところはどこでも、それは少ないものである。無限なるものは不死である。しかし、少ないものは死すべきものである」

(Ch.VII.xxiv.1)

彼に、かの聖仙(ピッパラーダ仙)が語った。「ガールギヤよ、」あたかも太陽が沈むとき、すべての光線がこの光明の円盤の中に入って一となり、太陽が昇るとき発散することを繰り返すように、まさにかの一切は最高神である意の中で一となるのである。従って、実に、この人間は睡眠中に聞くことなく、見ることなく、嗅ぐことなく、味わうことなく、感触を感ずることはない。また、語らず、取らず、娯しむことなく、排泄せず、歩くこともない。この場合、「彼は睡っている」といわれる。

(Pr.IV.2)岩本裕

しかし、プラーナの火焔(体内にある五気息)こそは、この都城(人間の身体の比喩的表現)の中で目覚めている。[祭火に喩えるならば]かの吸気(アパーナ)はガールハパトヤ祭火であり、体気(ヴィヤーナ)はアンヴァーハールヤ=パチャナ祭火であり、ガールハパトヤ祭火からわけられたアーハヴァニーヤ祭火は吸気(プラーナ)である。

(Pr.IV.3)岩本裕

かの神(意)が光明(ウダーナのこと)によって圧倒されたとき、その際には彼は夢を視ない。そして、その肉身の中にかの幸福が生ずる。

(Pr.IV.6)岩本裕

(サナトクマーラ師)「人が他のものを見ず、他のものを聴かず、他のものを認識しない場合、それが豊富(ブーマン)である。そして、人が他のものを見、他のものを聴き、他のものを認識する場合、それが欠乏である。実に豊富(ブーマン)とは不死のものであり、そして欠乏とは死すべきものである」と。(ナーラダ)「尊師よ、その豊富(ブーマン)は何を拠りどころとしていますか」と。(サナトクマーラ師)「自己の偉大さを拠りどころとしている場合もあれば、自己の偉大さに拠らない場合もある」

(Ch.VII.xxiv.1)岩本裕

(サナトクマーラ師)「人が他のものを見ず、他のものを聞かず、他のものを認識しないところはどこでも、それが無限なるもの(ブーマン)である。しかし、人が他のものを見、他のものを聞き、他のものを認識するするところはどこでも、それは少ないものである。無限なるもの(ブーマン)は不死である。しかし、少ないものは死すべきものである」

(Ch.VII.xxiv.1)

(サナトクマーラ師)「その幸福とは実に豊富(ブーマン)ということである。欠乏の場合に、幸福はない。豊富(ブーマン)こそ幸福なのである。しかし、豊富(ブーマン)こそ認識しようとされるべきである」と。

(Ch.VII.xxiii)岩本裕

このお方は、万生の中に住まいする一羽の白鳥(ハンサ・真我の意味)なのだ。このお方こそが、水(肉体)中に潜む火なのだ。かくなるお方を悟ることによってのみ、人は死を克服することができるのだ。その境地にたどり着くためには、他にたどる道はないのだ。

(Sv.VI.15)

この点に関して、詩頌がある。
真に見る者は死を見ず、
病を見ず、また苦境も見ることなし。
真に見る者は一切を見る。
彼はあらゆる処において、一切を得る、と。
彼は単一のものとなり、三重のものとなる。さらに、五重・七重・九重のものとなる。
さらに、彼は十一と思われ、
百と十と一と思われ、
さらに二万と思われる。
清浄な存在は清浄な食物の中に存在し、清浄な存在の中に確固たる記憶がある。記憶を獲得するときに、一切の節は解ける。不浄を払い去った後(ナーラダに)、世に尊きサナット=クマーラは闇黒の彼岸を指示する。人は彼をスカンダと呼ぶ。人は彼をスカンダと呼ぶ。

(Ch.VII.xxvi.2)岩本裕

(サナトクマーラ師)「このように観察し、このように思考し、このように認識する人のアートマンから生気(プラーナ)が生じる。...」

(Ch.VII.xxvi.1)岩本裕

今回の八節を要約すると

表題は、無限なるもの(ブーマン)

無限なるもの(ブーマン)がブラーフマンである。なぜならば、熟眠状態(サムプラサーダ=生気)の次の状態であると天啓聖典に教示されているからだ。

誰しも熟眠時に神様の元へ還っている?」にてお伝えしているように、無限なるものは熟眠状態の次ということは、第四の意識状態こそが無限なるものであるブーマンの状態であるというのを天啓聖典である『チャーンドギヤ・ウパニシャッド』にてサナトクマーラ師がナーラダへ教示していると引用しています。

『チャーンドギヤ・ウパニシャッド』において、ナーラダが今までに学んだことを示せと言われそれに答えると、サナトクマーラ師は「それは名称にすぎない」と言われたことから「名称より勝れたものはありますか?」と尋ね、以下のようにナーラダが次々とサナトクマーラ師の答えに対して「何々より勝れたものはありますか?」と続ける。

名称より言語、言語より意思(マナス)、意思(マナス)より思考(サンカルパ)、思考(サンカルパ)より心素(チッタ)、心素(チッタ)より熟慮(ディヤーナ)、熟慮(ディヤーナ)より相対的な智慧(ヴィジュナーナ)、相対的な智慧(ヴィジュナーナ)よりも力(パラム)、力(パラム)よりも食物(アンナ)、食物(アンナ)よりも水(アーポ)、水(アーポ)よりも熱(テージャ)、熱(テージャ)よりも空間(アーカーシャ)、空間(アーカーシャ)よりも記憶(スマラ)、記憶(スマラ)よりも希望(アーシャ)、最後には生気(プラーナ)は希望よりも偉大であるとし一切は生気によって固定されていること、つまり、真理を観察しそのように思考し認識する者とは雄弁となり討論にも勝利することをナーラダは学んだ上で

続いて、サナトクマーラ師は、認識するとき真実を語る、思考するとき認識する、信じるとき思考する、ものごとを完遂したときに信じることができる、行動するときにものごとを完遂する、幸福を得るときに行動するということを教え、その幸福とは実に無限なるものまたは豊富(ブーマン)であり欠乏(少ないもの)の場合に幸福はないゆえに無限なるものまたは豊富(ブーマン)こそ認識するべきだとナーラダへ教える。

そして、(Ch.VII.xxiv.1)にサナトクマーラ師が述べられているように「人が他のものを見ず、他のものを聞かず、他のものを認識しないところはどこでも、それが無限なるもの(ブーマン)である」つまり、自分と他を区別せずに観て聴いて認識していないものが無限なるものまたは豊富(ブーマン)であり

逆に、「人が他のものを見、他のものを聞き、他のものを認識するするところはどこでも、それは少ないもの(欠乏)である」つまり、自分と他を区別して見て聞いて認識しているものにとっては無限なるものまたは豊富(ブーマン)を知ることはなく


「無限なるものまたは豊富(ブーマン)は不死である。しかし、少ないもの(欠乏)は死すべきものである」とは、そのままの意味となる。

だからこそ、偉大であり、生気(プラーナ)を超えたところの無限なるもの(ブーマン)とはブラーフマンであるのは、睡眠状態(プラサーダ=生気)を超えた次の状態であると天啓聖典に述べられているし、ブラーフマンこそが私たちの源であり出自であるとの論理となっています。




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