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「観るという行為、そして、瞑想という行為の対象はすべてブラーフマンとなる」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.3.13)


はじめに

●PURVA MIMAMSA(プールヴァ・ミーマーンサー)
 Rituals(リチュアル)、Yajinas(ヤジュナ)、Yagas(ヤーガ)→Technology of vedas

●UTTRRA MIMAMSA(ウッタル・ミーマーンサー)
 UPANISADS(ウパニシャッド)→Science of vedas

ミーマーンサーとは、「反省」または「批判的調査」を意味するサンスクリット語で特定のヴェーダ文献の意味を熟考する瞑想の伝統を指すようです。

プールヴァとは、前のとか前半という意味となり、人間の能力として感性に訴えかけるヴェーダのテクノロジーとなり、リチュアルとは儀式関係で、ヤジュナとはホーマカラナと呼ばれている火を炊いて祈る儀式となり、ヤーガとは犠牲を供物として捧げるのですが原始的には生きた動物となり現代では五穀や穀物そして香木などとなります。

ウッタルとは、後ろのとか後半という意味となるので、感性だけでは難しいとなって後々にウパニシャッドにてヴェーダの科学として、知性に訴えかけるようにブラーフマンに関しての私たちへの手がかりとなっています。

この『ブラフマ・スートラ』シャンカラ師の註解書には、ウパニシャッドからたくさんの引用句が登場し、西暦後七世紀頃に生まれたとされるシャンカラ師が当時のほんの少数の五人とか十人の若者に正統派のヴェーダーンタ哲学を、ウパニシャッドの解説を教えたと伝えられています。

シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第三章十三節

表題4 見ることの対象

13節 見る行為(iksana)の対象として言及されていることから、至高の自己を意味していることがわかる。

疑問:「サティヤカーマよ、劣っているまたは優れている(として知られる)このブラフマンは、まさにこのオームに他ならない。それゆえ、照らされた魂は、この手段(または象徴)だけで、この二つのうちのどちらかに到達する」(Pr.V.2)という文から始まり、「また、三つの文字からなるこの音節オーム(AUM)の助けを借りて、至高のプルシャ(すべてを遍満する実在)を瞑想する者は誰でも、光からなる太陽に統一される。彼はサーマ・マントラによってブラーフマン(ヒランヤガルバ)の世界へと引き上げられる」(Pr.V.5)と述べられている。この文の中で、至高のブラーフマンへの瞑想が命じられているのか、それとも劣っているブラーフマンへの瞑想が命じられているのかの疑問が生じる。というのも、このトピックは、「この手段のみによって、二つのうちのどちらかに到達する」というところから始まっており、どちらも関連するからである。

反論相手:では、結論とし、それは劣ったブラフマンということになります。

なぜですか?

なぜなら、「彼は光からなる太陽の中に入り、サーマ・マントラによってブラーフマンの世界に引き上げられる」(同上)という文章では、空間的に限定された結果が、そのブラーフマンを知る者に対して保証されているからです。至高のブラーフマンが遍在する以上、至高のブラーフマンを知る者が空間的に限定された結果を得るのは妥当ではない。

反論:劣ったブラーフマンを意味すると仮定すれば、「至高のプルシャ」(同上)という形容(the qualification資格)は不適切ではないか?

反対者 これは何の問題も生じない。というのも、粗雑な肉体(ヴィラートの)と比べて、ヒランヤガルバ(劣ったブラーフマン)は当然に高いからである。

ヴェーダンティン:このような立場から、至高のブラーフマンそのものが瞑想のためにここで説かれていると言われているのだ。

なぜか?

なぜなら、iksanaの対象が述べられているからだ。iksanaとは見るという意味である。そして、iksati-karmaとは、見るという行為によって覆われる対象を意味する。瞑想すべきプルシャは、この文章の補足部分で見る対象として示されている。「この被造物(creatures)のすべての塊(すなわちヒランヤガルバ)から、すべてを貫き、より高いもの(ヒランヤガルバ)よりも高い至高のプルシャを見る」(Pr.V.5)見るという行為と瞑想という行為の二つの行為のうち、瞑想の対象は非現実的なものかもしれない。なぜなら、空想的なものが瞑想の内容である可能性もあるからです。しかし、この世界では、見る内容は現実のものによって構成されます。それゆえに、私たちは、iksanaの対象として言及されているのは、完全な悟りの内容を形成する至高の自己そのものであると理解します。そして、「至高」、「すべてに浸透する実在(すべてに遍在する実在)」というウパニシャッドの用語によってその正体が明らかにされているまさにその自己そのものが、ここでは瞑想(*10)の対象として示されている。

(*10)meditation:したがって、瞑想の対象がヒランヤガルバであり、見る対象がプルシャ(この言葉は「すべてに浸透する実在(すべてに遍在する実在)」または「この心臓の都に住む実在」を意味する)であるとは考えられない。

反論相手:至高のプルシャは瞑想に関連して言及されているのに対し、「さらに高いもの」は見ることに関連して言及されているのではないですか?では、どうして別の文脈で、一方が他方と同一であると認識できるのですか?

ヴェーダンティン:答えはこうです。それに関しては、至高(パラ)とプルシャという二つの用語は、見ることと瞑想に関する両方のテキストに共通しています。そして、「被造物の総体(jivaghana)」という用語が、瞑想に関連し、瞑想のために意図されている至高のすべてを貫く実体を暗示しているということはできない。その場合、見るべき他のすべてに浸透する実在であるプルシャだけが、「その高いものよりも高いもの」であり得るのである。

反対者 : では、「被造物の総体」という言葉で言及されているのは誰ですか?

ヴェーダンティン:答えはこうだ。塊とは(塩の塊のような)形成物であり、個々の存在を構成する形成物は、その「被造物の総体」である。「被造物の総体」という用語は、塩の塊に匹敵する個々の存在(つまりヒランヤガルバ)に似せた至高の自己の限定された顕現を意味します。そして、これは限定的な付属物によって呼び起こされ、感覚対象よりも高く、そして、それを感知します。

(「彼は、より高いjivaghanaよりも高い至高のプルサを見る」の意味について)他の誰かが言う。「jivaghana(文字通り被造物の総体)という言葉は、ここでは他の世界よりも高いブラーフマンの世界を意味し、直前の文「サーマ・マントラによって、彼はブラーフマンの世界へと引き上げられる」(同上)に示されている。ブラーフマンの世界は、(形容語句の転移によって)被造物の総体となり得る、なぜなら、感覚によって範囲を定められた(区切られた)個々の存在はすべて、ヒランヤガルバに統合され、ブラーフマンの世界に住まうようになり、自らを器官の全体と同一視するようになるからである。それゆえ、その世界を超越し、「見る」対象である至高の自己は、「瞑想」の対象でもあると理解される。「すべてに浸透する至高の実在」という形容語句は、至高の自己のみを受け入れることによって適切なものとなる。なぜなら、至高の自己だけが、すべてに浸透する至高の実在であり得るからであり、それを超えるものは何も存在できないからだ。別のウパニシャッドには、「プルシャ(すべてに浸透する実在)よりも高いものはない。プルシャは頂点であり、最高の目標である」(Ka.I.iii.11)と述べられている。ウパニシャッドが、「劣ったもの、優れたものとして知られているこのブラーフマンは、このオームに他ならない」(Pr.V.2)と言って区別し、その直後に、至高のプルシャはオームの助けを借りて瞑想されるべきであると付け加えると、至高のプルシャは至高のブラーフマンに他ならないことが理解できる。「蛇がその抜け殻から解放されるように、まさに同じように、彼も罪から解放される」(Pr.V.5)に含まれるように、罪からの解放という結果の宣言は、至高の自己がここでの瞑想の対象であることを示している。至高の自己を瞑想する者は、空間的に限定された結果を得ることはできないという反論に対する我々の答えはこうである。三つの文字で構成されるオームの助けを借りてブラーフマンを瞑想する者に与えられる結果は、ブラーフマンの世界に到達することであり、その後、段階的に完全な悟りが現れることである。このように、これは段階的な解脱に導くためのものであり、欠陥はない。

最後に

今回の第一篇第三章十三節にて引用されている『プラシュナ・ウパニシャッド』と『カタ・ウパニシャッド』を以下にてご参考ください。

それから、シャイビヤ・サティヤカーマは、ピッパラーダ師に尋ねた。
「尊敬すべき人よ。ある人間が、その死に至るまで聖音アウン(AUM)を瞑想し続けるとしたら、その人物は瞑想によって如何なる世界を獲得するのでしょうか?」と。

(Pr.V.1)

サティヤカーマよ。まことに聖音アウン(AUM)という音節は、より優れ、また、より劣っているブラーフマンである。それ故に、賢者はこの瞑想によっていずれかに到達するのである。

(Pr.V.2)

もしも人が、最初のア(A)音に瞑想を施せば、それだけによっても死後即座に解脱し、地上に戻ってくる。ヴェーダ聖典の詩句は、その者を人間の世界に連れてくるのである。人間界においてその者は、苦行(タパス)と禁欲(ブラフマチャルヤ)と篤信(シュラッダハ)の力を与えられて、偉大さの中で生きるのである。

(Pr.V.3)

もし人がこの音声を二音量(AU)として心に会得するならば、彼は祭詩(ヤジュス)によって中空にあるソーマ(月神)の世界に導かれる。彼はソーマの世界において繁栄を壇にして、再びこの世に還るのだ。

(Pr.V.4)岩本裕

しかるに聖音アウン(AUM)の音節によってのみ最高の神我(プルシャ)に瞑想する者は、太陽たる光の中に入り、蛇が皮から解放されるように、諸罪障から解放される。詩句の詠唱によってその者はブラーフマンの世界に導かれる。その者は個我よりも更に高き身体内に住まいする神我を見るのである。

(Pr.V.5)

偉大なるものの上に未開展のものがあり、プルシャは未開展のものより更に上にある。プルシャの上にはなにもなく、それは頂点であり、最高の拠りどころである。

(Ka.I.iii.11)岩本裕

今回の十三節を要約すると

表題4 瞑想(悟り)の対象

観る行為の対象として天啓聖典に記述されていることから、瞑想の対象はブラーフマンである。

このことの証拠として、『プラシュナ・ウパニシャッド』を引用して教説しているのですが、その中で「劣ったブラーフマン」と「優れたブラーフマン」として絶対者ブラーフマンを区別しているのを矛盾していると感じられた方々がいらっしゃるかもしれません。

「ブラーフマン」を分かりやすく「プラーナ」として、つまり、エネルギーだとして捉えれば、エネルギーの顕現した状態として高い低いと区別することができますし

また、「すべてに浸透する実在(すべてに遍在する実在)」という表現も素粒子の運動として考えれば、素粒子の波動性、つまり、波動ならば音として重なり合うので、たとえば、部屋という空間において、すべてに浸透した波動を超えるような実在だと考えることもできるわけです。このように考えると区別しようがない最高の神我(プルシャ)だと言えるわけです。

エネルギーとして、最高の神我(プルシャ)として、すべて共通しているのですが、その顕現では劣っている優れていると述べているようです。

今節では引用されていない三節にて、「もしも人が、最初のア(A)音に瞑想を施せば、それだけによっても死後即座に解脱し、地上に戻ってくる」つまり、人間の世界に人間として戻ってきて、その人物は人間界で「苦行(タパス)と禁欲(ブラフマチャルヤ)と篤信(シュラッダハ)の力を与えられて、偉大さの中で生きる」と述べられていますが

このことは、聖音AUMの三音節をブラーフマンであるとしているので、聖音Aの一音、AUの二音、AUMの三音の区別で劣ったブラーフマン優れたブラーフマンと分けて、すべてを支える実在であるブラーフマンの理解度合いまたは感性において感じる度合いに応じてその結果と言いますか成果が異なってくると述べていると思われます。

ですので、釈迦に説法ですが、オーム返しのようにただただアーとかアーウーとかアーウーンとか唱えていても理解と感性が伴っていないので、『プラシュナ・ウパニシャッド』にて述べられているようにはなりません。

いきなり飛び級してブラーフマンに達するということではなく、ホップ・ステップ・ジャンプと段階的に近づくことができるとシャンカラ師は私たちを今回の節を通して励ましの教説なのかもしれません。

最終段階のとして、五節には、「しかるに聖音アウン(AUM)の音節によってのみ最高の神我(プルシャ)に瞑想する者は、太陽たる光の中に入り、蛇が皮から解放されるように、諸罪障から解放される。詩句の詠唱によってその者はブラーフマンの世界に導かれる。その者は個我よりも更に高き身体内に住まいする神我を見るのである」と述べられていることを思い起こしてくださっています。


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