「サーンキヤで言及されるプラダーナは内なる支配者であるブラーフマンではない」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.2.19)
はじめに
復習となりますが、下記に聖典の種類を分類しておきます。
天啓聖典(Sruti Prasthana)→ヴェーダ聖典、ウパニシャッド聖典群
聖伝聖典(Smurti Prasthana)→バガヴァッド・ギーター、マヌ・スムリティなど
論理聖典(Nyaya Prasthana)→ブラフマ・スートラ、パンチャダシなど
以上の聖典が地図となり目的地となるブラーフマンへと到着するべくヨーガという乗り物でその道を歩んでいくこととなります。このことについては「ヨーガの技術に哲学の塩味をつけると」をご参照ください。
シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第二章十九節
19節 (サーンキヤ)スムルティで知られるプラダーナも、内部の支配者ではない。なぜなら、プラダーナに属さない性質が語られているからだ。
反論相手:おそらく、目に見えないなどの性質は、サーンキヤのスムルティで考えられているプラダーナ(根本原質)と一致するかもしれない。なぜなら、彼らはそのスムルティの中で、「理性を超え、不可解であり、いたるところで深い眠りについているかのようである」(Manu.1.5)と述べている。プラダーナはすべての変化の源であるため、支配者になることさえできる。したがって、内部の支配者という用語はプラダーナを表す。プラダーナは、「見るという帰属のため、ウパニシャッドで教えられていないもの(つまり、サーンキヤのプラダーナ)は宇宙の原因ではない」(B.S.1.1.5)という格言で反論されたが、それでも、見られないなどの性質がそれに帰属されることができる。
ヴェーダンティン:ですから、答えが出されているのです。スムリティのプラダナは、内部の支配者という用語で意味することはできません。
なぜでしょうか?
「なぜなら、プラダーナに属さない性質が語られているからである」見えない性質などはプラダーナに属するが、観照者(the witness)としての性質などはそうではない。というのも、プラダーナは感覚がないと彼らによって認められているからであるが、ここでのテキストの補足部分は「彼は決して見られないが、観照者であり、彼は決して聞かれないが、聞く者であり、彼は決して考えられないが、考える者であり、彼は決して知られないが、知る者である」(Br.Ⅲ.7.23)となっている。その上、プラダーナは決して自己になることはできない(“あなた自身の不滅の自己”と述べられているようにー同上)。
反論相手:プラダーナが自己であり観照者であることが不可能であるために、プラダーナが内部の支配者であることができないのであれば、個別の魂をそうすべきです。なぜなら、肉体化された魂は意識的な存在であり、そのような存在として、観る者、聞く者、考える者、そして知る者となるからである。そして、それはまた、最奥なるものである自己でもある。善行と悪行の果実の刈り取りを可能にするためには、魂も不滅でなければならない。また、肉体化された魂が、見られないという特徴を持っていることなどは、よく知られた事実である。というのも、「視覚(vision)の観照者であるものを観ることはできない」(Br.Ⅲ.4.2)などやその他のテキストに示されているように、目撃(観ている)などの行為が(目撃などの)行為者自身を観る対象としていることは、事実に反しているからである。そして、その魂は、肉体と感覚の集合体を内側から制御する能力を持っている。なぜなら、魂は(自らの行為の結果の)体験者だからである。このように、肉体化された魂は内部の支配者である。ヴェーダンティン:これに対する答えは次のとおりになる。
最後に
今回の第一篇第二章十九節にて引用されている『ブラフマ・スートラ』と『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』を以下にてご参考ください。
今回の十九節を要約すると
サーンキヤなどのスムリティ(聖伝聖典)で言及されているものであるプラダーナ(根本原質)は、その性質がブラーフマンのものとは反する故に、内なる支配者ではない。
ヴェーダーンタ哲学の不二一元論に対して、サーンキヤ哲学は二元論となり、つまり、絶対的なエネルギーとなる元があり、その一方でそのエネルギーが物質を作り出すための素材が必要だとする考えとなります。
一時期、インドにおいて、サーンキヤ哲学がもてはやされた時期があったとのことですが、現代のインドにおいては、完全に残らなくなってしまったようです。サーンキヤ哲学を元にしたヨーガ行者はいなくなったととのことです。
ウパニシャッドという不二一元論では、ブラーフマンのみが真の実在であるとして、私たちの根本において頼るべき縁(よすが)であり、プラダーナというものは、正しい表現ではないのですが、ブラーフマンから(誤創造されて)出てきたものであって真実在のものではないという論理になっています。
『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』第三篇第七章第二十三節のの引用から、私たちが考える、という考える元をブラーフマンに由来する働きとして捉えることになりますので
私たちが瞑想という形で熟考という思考の中で、ブラーフマンに行き着く時には、【ブラーフマン由来ではなく考える】ということを止滅することが、『ヨーガ・スートラ』においての「心素の働きを止滅する」と記述されていると言えます。
つまり、私たちが【ブラーフマン由来ではなく考える】もしくは【個別の自己として考える】というその考えそのものに翻弄されることに陥っています。
そして、今現在、このような“note”において、私たちはまったくブラーフマンとはかけ離れた状態で文章を私が書き皆様は読んで考えていることからすると、真の救済とはならないかもしれません。このような時間を積み重ねて数十年もの間に待ったとしても無駄な時間と言えるのかもしれません。しかし、この『ブラフマ・スートラ』のシャンカラ師の註解書の中から進むべき道を感じ取れる人が少なからずいらっしゃることからすると、無駄ではないと言えると思っています。
また、ヤージナヴァルキァ師が述べている、観るものがブラーフマンであり、この観るという意識を止滅することがヨーガであり、そこから真の救済が生じるということから考えるならば、あれこれと瞑想の中で熟考しているものをすべて無くしていった時に、絶対なるものであるブラーフマンに触れてるという時間が現れてくるという、ブラーフマンのみに心の働きを集中して止める不動の心の状態となり得るということだと推論できます。