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「個我は有限性と不可能性の故に目の中のブラーフマンとはなり得ない」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.2.17)


はじめに

私にとって、“note”にてこれまでの『ブラフマ・スートラ』のシャンカラ師の註解書にて、プラーナヤーマと呼ばれている呼吸法や瞑想とともに実生活に違いが生じたようです。

というのは、「プラーナはブラーフマンである」とするならば、呼気や吸気がブラーフマンとして感じられ、呼気においてはブラーフマンを延長している感覚を感じられます。

また、瞑想においては、「目の中にいるブラーフマン」とすることで、不思議ととても身近に感じられるし、その感覚の状態を保持すると、目を通して入る景色をブラーフマンとともに観ているような感じがします。こうなると、いつもの日常的な行為が新鮮に丁寧になる感じがしたりします。

智者であり賢者たる皆様はいかがでしょうか?

シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第二章十七節

17節 有限性と不可能性のゆえに、他の誰もその目の中のお方となり得ない。 

目の中のお方は、影のような存在かもしれないし、個別の自己かもしれないし、何らかの神聖な存在かもしれないと主張されました。これに関して、私たちは言いいます。影のような存在も、それ以外の存在も、ここでは認められません。

なぜですか?

それは一過性のものだからだ。まず影のような自己を取り上げるには、それが目の中に永続的に存在することは不可能である。目の前に人がいれば、その人の像が目の中に見えるが、その人が遠ざかれば、そのイメージは見えなくなる。「目の中にいるお方、そのお方」(Ch.IV.xv.1)というテキストは、目の中におられるお方が、手近におられるという理由だけで、そのお方を崇拝することを教えている。瞑想の際に、瞑想者が自分の近くに誰かを置いて目にイメージを描き、それを瞑想すると考えるのは適切ではない。
というのも、「この者は、この肉体の死に従って滅びる」(Ch.VIII.ix.1)というテキストは、影のような存在の有限性を示しているからである。そのうえ、これは不可能なことである。なぜなら、不死のような性質は、その影のような存在には見いだせないからである。個別の魂についても同様である。この魂が全体として肉体や感覚と一般的に接触している以上、目だけにその存在を語ることは不可能である。しかし、ブラーフマンにとっては、それが遍在的であるにもかかわらず、瞑想のために心臓のような特別な場所と結びつくことは、ウパニシャッドの中で見受けられる。知性と同一視される魂に不死のような性質が存在することも、同様に不可能である。実のところ、個別の自己は至高の自己と同じであるにもかかわらず、それでも無智、欲望、行為によって、死と恐怖が前者に重ねられている。したがって、不死と恐れのなさはそれには適合しません。また、あらゆる善い属性の宝庫であるというような性質も、神性な威厳がないため、この存在にはふさわしくない。いかなる神聖な存在に関しても、そのような神はヴェーダのテキストに従って目の中に存在するが、「前者(太陽の中の存在)は、光線を通して後者(右目の中の存在)の上にやすらいでいる」(Br.V.v.2)としても、 しかし、その神は外部に存在するのだから、自己であるはずがない。ヴェーダは神々の誕生と死について言及しているのだから、不死なども場違いであり、 神々の不死は、その長寿の観点からのみ語られる。神々の威厳も神に依存しており、本質的なものではない。マントラによれば、「神の恐れによって風は吹き、神の恐れによって太陽は昇り、神の恐れによって火とインドラは活動し続け、第五の死は(死にゆく者のもとへ)急ぐ」(Tai.II.viii.1)とある。したがって、神とは目の中にある存在であると理解すべきである。この観点から、「(目の中に)見られる」(Ch.IV.xv.1)という言葉が馴染み深い意味で使われているのは、聖典の見解から生じたものであり、悟りを開いた人のヴィジョンを指していると説明され、そのすべては求道者を(この瞑想に)誘うための賛美として意図されている。

最後に

今回の第一篇第二章十七節にて引用されている『チャーンドギヤ・ウパニシャッド』と『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』を以下にてご参考ください。

さて、インドラは神々の許に到達するまえに、このような危惧を抱いた。「実にこの肉身が綺麗な飾りをつけ、美しい衣服を着て、よく身なりを整えていると、[鏡の中のアートマンも]綺麗な飾りをつけ、美しい衣服を着て、よく身なりを整えているように、まさにわれわれの肉身が盲目であったり、足萎えであったり、唖であったりすれば、[鏡の中のアートマンも]盲目であったり、足萎えであったり、唖であったりしよう。この肉身が消えてなくなれば、それも消えてなくなろう。この点、私には納得がいかない」と。

(Ch.VIII.ix.1)岩本裕訳

ところで、真実在のものはあそこにある太陽である。太陽の輪の内にある者と右目の中にある者とは、互いに支え合っている。太陽の輪の内にある者は、太陽の光によって右目中にある者の中に支えられており、この右目中にある者は生気によって太陽の輪の内にある者の上に支えられている。こうした人物がこの世から去ろうとする時には、太陽の輪をはっきりと見る。これらの輪は再びこの者の元にはやって来ない。

(Br.V.v.2)

師匠はこのように語った。「この眼の中に見られるプルシャは、アートマンである。それは不死で、無畏である。それはブラフマンである。眼に酪油あるいは水を注ぎかけても、睫毛(まつげ)にだけかかる[のは、眼の中にいるプルシャが眼を閉じさせるからである]」

(Ch.IV.xv.1)岩本裕訳

今回の十七節を要約すると

個我とは、その有限性と不可能性により、誰も目の中のお方たり得ない。

つまり、個我は有限であり、その可能性ということに関しては微々たるものなので、ブラーフマンとはたり得ないということになりますが

しかし、このことは、個我のレベルではなり得ないのであり、この個のレベルを克服していく、以前に記述したように、ブラーフマンという「縁(よすが)」に融合していくということになります。

ここでの第一篇自体が「正しい解説による神様との融合」となりますので、まずは目標地点をいろいろと説明している途中となっています。

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