「ブラーフマンが万物の源としての有様だとウパニシャッドに語られている」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.2.23)
はじめに
ヒランヤガルバ(Hiranyagarbha)とは、「黄金の子宮」もしくは、詩的には「普遍的な子宮」と訳され、ヴェーダ哲学における宇宙または顕現された宇宙の創造の源であると考えられている。
ウパニシャッドはこれを宇宙の魂またはブラフマンと呼び、古典的なプラーナヒンドゥー教では、ヒランヤガルバはヴェーダーンタで「創造主」のために使用される用語となっている。ヒランヤガルバはブラフマーでもあり、彼が金の卵の中に生まれたと言われることからそう呼ばれ(Manu Smṛ 1.9)、マハーバーラタでは「顕現者」と呼ばれている。
シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第二章二十三節
23節 そして、有様(the form)の提示があるからだ。
さらに、「優れた不変のものよりも優れている」というテキストのすぐ後に、生命力から大地まで数えた存在の創造が、「彼から生命力が生まれる」(Mu.II.i.3)そしてその後に、「万物の内在する自己は、天が頭であり、月と太陽が両目であり、方角が両耳であり、啓示されたヴェーダが言葉であり、空気が生命力であり、宇宙が心臓であり、その両足から大地が生まれたお方である」(Mu.Ⅱ.i.4)という節で、万物の源であり、その中にすべての被造物を含んでいるという形が示されていることに気づく。すべては神にのみふさわしいものであり、神はすべての創造の源である。このような形の提示は、肉体化された魂とは相容れないものであり、その偉大さには限りがあるからである。そして、これはすべての存在の内在する自己であることができないプラダーナと相容れません。したがって、神のみが万物の源であり、他の二つはそうではないと理解される。
これが万物の源の有様(the form)の提示であることが、どうしてまたわかるのか?
というのも、文脈から、また「それは彼である」(同上)という言葉が、考察の対象となる何かを暗示しているからである。万物の源という話題を切り出した後で、「生命力は彼から生まれる」(Mu.II.i.3)、「万物に内在する自己は確かに彼である」(Mu.Il.i.4)などと述べる場合、これらは万物の源に関係しているに違いない。例えば、ある教師について話を始めた後、誰かが「彼の下で読みなさい。彼はヴェーダと付随する学問に精通している」と言うなら、その発言はその教師に関するものである。この場合も同様だ。
反論相手:目に見えない性質などを持つ万物の根源が、どうして物理的な形を持つことができるでしょうか?
ヴェーダンティン:それは何の困難も生じません。なぜなら、この声明は、「私は食物であり、私は食物を食べる者である」(Tai.M.x.6)の場合と同じように、あらゆるものに遍在する啓示を視野に入れているのであって、いかなる物理的な形も視野に入れていないからです。
また、他の人々(ヴルッティカーラなど)はこう考える:これは万物の根源の提示ではない、なぜなら、提示は誕生という事実を通してなされるからである。先の節「この方から、生命力、心、すべての感覚、空間、空気、火、水、そしてすべて(*15)を支える大地が生まれる」(Mu.II.i.3)では、生命力から大地に至るまで、すべての存在は、生まれるという観点から提示されている。その後、「彼からは、火(すなわち天)が生まれ、太陽はその燃料である」(Mu. II. i. 5)から始まり、「彼からは、すべての穀物とジュースが出る」(Mu.II.i.9)などで終わる節も、物事が生まれることだけを語っている。このような中で、どうして突然、万物の源という有様(the form)だけがここに示されるのだろうか?
(*15)everything: このテキストは、「万物に内在する自己」(Mu.Ⅱ.ⅰ.4)で言及されているすべてを包括するヒランヤガルバが、万物の源である彼(Mu.Ⅱ.ⅰ.3)から出現することを暗示している。だから、ヒランヤガルバは他のあらゆるものと同じように誕生する。
すべての遍在性もまた、創造を終えた後、次の一節で説かれる。「プルシャのみが、カルマと知識を含むすべてである」(Mu.II.i.10)で教えられます。ヴェーダとスムリティにも、三界をその体とする存在の誕生などについての記述があります。「ヒランヤガルバが最初に生まれ、生まれた後、彼はすべての存在の唯一の主となりました。彼は大地とこの天を保持した。その唯一の神を私たちは供物で祀る」(R.V.X.cxxi.1)そのテキストのsamavartataという言葉は「お生まれになった」という意味です。テキストでまた「彼は最初に顕在化した存在であり、プルシャと呼ばれ、すべての存在の最初の命令者です。このようにしてブラフマーは初めに生まれた」とあります。創造された者(すなわちヒランヤガルバ)でさえ、あらゆるものに遍在することができます。なぜなら、生命力としての側面において、ヒランヤガルバはあらゆる生き物の体内に宿るからです。
この視点を受け入れるなら、(格言の)説明はこうなる。「プルシャはこのすべてである」(Mu.II.i.10)のようなテキストにおける様式(form)の提示はすべて、至高の主(*16)を理解することにつながるのである。
(*16)Lord:「すべてのカルマと知識(すなわち瞑想)はプルシャに過ぎない」という主張は、すべてのものに内在する存在を示すことになる。そして、このテキストは、至高の主が万物の源であるという理解へと導く。
最後に
今回の第一篇第二章二十三節にて引用されている『ムンダカ・ウパニシャッド』を以下にてご参考ください。
今回の二十三節を要約すると
ブラーフマンに関して語られてきたウパニシャッドの経句でブラーフマンの有様が語られているので、至高の主として万物の源であることが理解できる。
二十三節のここの論説は、不生である、つまり、生まれることがないと以前に述べられながら「お生まれになった」としているのは、矛盾するといえばそうなのですが
ここは比喩として、もしくは、研ぎ澄まされた感性にて感じて受け取ってくださればと思います。