「心臓内の空洞に入ってきた二者が個我とブラーフマンであることの救済について」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.2.12)
はじめに
今回のシャンカラ師の教説は、哲学的にすぐれた人物だとするだけでなく、教師としてもかなりもの凄く素晴らしい人物であったことを再認識する内容だと思います。
そのことをできる限り日本語にてお伝えできるようにほんの少しですが意訳しています。
英語と違って日本語はきめ細かな表現ができるので、私たち日本人はとても幸運だとまたまたこのような精神的な哲学や思想に触れるたびに実感しています。
シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第二章十二節
12節 そして、記述(specification)があるからです。
そして、(ウパニシャッドでなされた)記述は、知性および至高の自己のみと同一視される魂に適用される。「自己は戦車の乗り手であり、肉体は戦車であることを知れ」(Ka.I.iii.3)などで始まる、戦車と戦車の乗り手のイメージを呼び起こす続く文章では、知性と同一視される自己は、世俗の状態か解脱のどちらかに到達しなければならない戦車の乗り手として想像される。そして、至高の自己は、「彼は道の終わりに到達し、それがヴィシュヌの至高の状態である」(Ka.I.iii.9)において到達すべきゴールとして想像される。
前のテキストでも、この二者が「聡明な人は、自己に心を集中することによって幸福と悲しみを捨て、それによって、不可解であり、マーヤの中に近づき難く宿り、知性の中に位置し、悲惨さの真っ只中に座っている古い神を瞑想する」(Ka.I.ii.12)という韻文の中で、考える者と考える対象として指定されています。その上、これは至高の自己の話題である。そして、「ブラーフマンを知る者は言う」(Ka.I.iii.1)という表現は、特別な階級の話者を想定するものですが、至高の自己を受け入れれば正当化できる。したがって、ここでは個別の自己と至高の自己が語られていることが認められるべきです。
このアプローチは、「いつも一緒にいて似たような名前を持つ二羽の鳥(同じ木にしがみついている)」(Mu. III. i. 1、Sv. IV. 6)などのテキストにも適用する必要があります。そこでも、話題の中心は魂であるため、普通の鳥については語られていない。「この二羽のうち、一羽は味覚の異なる果実を食べる」(同上)というテキストでは、個別の自己は食べることを示す印の強さによって理解される。そして、「もう一方は食べずに見ている」(同上)では、至高の自己は食べないことと意識の強さによって理解される。次のマントラでも、この二者は観る者と観られる対象として特定されている。「同じ木の上で、個別の魂は溺れた(つまり、動けなくなった)まま生き残り、そして、その無力さに悩み、うめき声を上げる。このようにして、もう一方の者、崇拝する主、そして、その栄光を見るとき、悲しみから解き放たれる」(Mu.III.i.2)
他の人はこうも言う。「二羽の鳥」などのマントラ (Mu.III.i.1)は、今回の表題で得られた結論とは一致しない。なぜなら、Paingi-rahasya-brdhmanaでは次のように説明されている。「“この二羽のうち、一羽は味の異なる果実を食べる”という表現はサットヴァのことであり、「もう一羽は食べずに見ている」という表現は、食べずに目撃するジナー(文字通り、知る者) を意味します。つまり、サットヴァとクシェトラジナー(土地や肉体を知る者)を意味する」サットヴァという言葉は個別の魂を意味し、クシェトラジナーという言葉は至高の自己を意味すると主張されるかもしれないが、それは間違いである。なぜなら、サットヴァとクシェトラジナーという言葉は、内的器官(心)と肉体化された魂を意味する言葉としてよく知られており、まさにそのテキストで次のように説明されているからである。「人が夢を見るのはサットヴァであり、肉体化された証人であるのはクシェトラジナーである。この二者がサットヴァとケシェトラジナーである」
ヴェーダンティン:しかし、これは現在の表題と対立するものとは言えません。なぜなら、クシェトラジナーと呼ばれる肉体化された自己は、ここ(Paingi・ブラーフマナ)では、行為者(agentship)や享受者(enjoyership)といった世俗的な性質を備えているとは示されていないからです。
では、どのように示されるのか?
それは、すべての世俗的な性質から自由であり、純粋な意識を持つブラーフマンそのものと本質において同一であるとして示されている。「“もう一羽は食べずに見ている”とは、“食べずに目撃する知る者”という意味である」そして、このことは、ヴェーダやスムリティの「汝はそれである」(Ch.VI.viii.7)、「汝はまた、我をクシェトラジナーであると知る」(GYta,XIII.2)のようなテキストによって裏付けられている。このように、「二者はサットヴァとクシェトラジナーである」という言葉だけで、これだけ(つまり、マントラの説明)でこのように下された結論として、そのような智識を持つ人間に無智は何の影響も及ぼさないなどという言葉は、この仮定(個別の魂がブラーフマンとして語られること)のみで正当化できるようになる。
反論相手:そのような観点からすると、「“そのうちの一羽は、さまざまな嗜好の果実を食べる”とは、サットヴァ(すなわち内的器官)のことである」と言うことによって、どうして享楽者が感覚のない心に帰属させられるのでしょうか?
答えは:このヴェーダのテキストは、「私は感覚のない享有者について語ろう」という考えから始まってはいない。
では、その考えとは何か?
その考えは:「私は、感覚を持つ個人は経験者ではなく、本質的にブラーフマンであることを示そう」というものだ。喜怒哀楽のような世俗的な気分に左右される心に享受者が帰属するのはこのためである。なぜなら、魂と心には、その本性を区別しないために、(代理となる)行為者であり経験者であるというこれらの状態が空想される。現実には、これらの状態は魂と心のどちらにも不可能である。心は無感覚であり、魂は不変だからである。これを裏付けるヴェーダのテキストがある。「というのも、いわば違いがあるとき、人は別のものを見るからである」(Br.IV.v.15)というヴェーダの文章があり、そこでは、夢の中に存在する象などと取引することが可能であるのと同じ意味で、(代理となる)行為者との関係などに基づく取引は、無智の範囲内でのみ可能であることが示されている。また、「しかし、ブラーフマンを知る者にとって、すべてが自己(真我)となったとき、人は何を見るべきか、何を通して見るべきか?」(同書)というテキストによって、識別力のある人にとって、(代理となる)行為者という関係などに基づくそのような取引は否定されている。
最後に
今回の第一篇第二章十二節にて引用されている『カタ・ウパニシャッド』と『チャーンドギヤ・ウパニシャッド』、『バガヴァッド・ギータ』、『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』を以下にてご参考ください。
今回の十二節を要約すると
そして、それらの聖典には個我とブラーフマンの二者の特定の性質が記されている。
となります。
この二者にとって、肉体や心の拠り所頼りとする「よすが」に大きな違いがあることが見て取れます。
何を「よすが」にするのかによって、その人物の強固な強い生き様が現れるのかもしくは現れないのかの分かれ道になったりします。
インドにおける「よすが」が絶対のそして不変の存在として支えるということにより、つまり、真の実在たるブラーフマンへと行き着いたことで、ニセのあやふやな存在に行き着いてその上に乗っかっている(支えられている)と思っている限り、常に、そのうちにひっくり返ると本当の意味でわかります。
そして、このことを痛いほどによく理解できる人たちが真の実在に行けることになるとインドでは考えられているようです。
このインドの考え方のグッドニュースは、何か?
生きとし生けるものすべての心臓内の空間に、個我とブラーフマンが内在しているということは何を意味しているのかと言うと、今現在、どのような状況もしくは境遇におかれているとしても、二者の内の相対的な個我と呼ばれている(代理となる)行為者によって経験されているということ。
そして、ブラーフマンと呼ばれている絶対的な実在に行き着くことで、または、その絶対的な実在を対象として気づく(意識する)とか悟るとか、自らをその絶対的な実在と同一視できるとか、自らとその絶対的な実在をひとつに感じられることができること、これがすなわち救済になるということです。
行き着いた尊者の数々ある伝記によれば、自らがその絶対的な存在であった、神様しかいなかった、自らも神様の一部だった、まわりもすべて神様だった、ここ自体が神様そのものだった、ここには神様しかいなかった、などなどのようになったときに、私たちは根本的な源となる実在に行き着いたということになりますし、これが救済であるというのがインドの論理となっています。
しかし、このことは、私たち日本人にとっても、いわゆる日常の常識的な考え方からしても極めて矛盾のない考え方であると言えますし、この論理は、多くの人たちがアドバイタである、つまり、不二一元なのだということになります。そして、この一元へと行き着くというのが一つの論理であるとシャンカラ師はここで述べていると推論できます!
今回の節で個人的に興味深かったのが
この「心は無感覚」であるというのは、本来の心は知覚という認識をしないという意味であろうが、ヴェーダーンタ哲学的に言うと、識別智(ヴィヴェカキャーティ)がなされず無智さに陥っている誤りにて、本来は知覚しない心が知覚するという間違いが生じている、だからこそ、「(代理となる)行為者であり経験者であるというこれらの状態が空想される」という、シャンカラ師の指摘は凄いというか脱帽しかない。