「ブラーフマンと個我とは用語からして違うからだ」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.2.5)
はじめに
今回の節は、現存しているかどうかわからない聖典からの引用でのシャンカラ師の教説となりますし、かなり強引なといいますか、当時の人たちはこれで納得したのかが不明ではあります。
ともかく、シャンカラ師が何を言わんとしているのかを推論しながら進めていきたいと思っています。
シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第二章五節
5節 ( 2つの単語の語尾の)違いによる。
心と同一視されるなどの特徴を持つものは、肉体化された存在とは異なるはずである。というのも、別のヴェーダのテキストでも、同じような文脈(*5)で語尾の違いが生じているからである。「米や大麦の一粒やsyamaka(カナリア)やsyamakaの種が(非常に)小さいように、(個々の)魂(アンタル・アートマン)の内側に輝くプルシャ(すなわち意識的に遍在する実在)も同様である」(S.B.X.vi.3.2.) ここでプルシャという語は、単数、主格で用いられ、心などと同一視される性質を備えた自己を意味する。この語は、第七格末尾で用いられ、肉体化された魂を指すアンタル・アートマン(*6)という語とは異なる。それゆえ、両者の違いは明白となる(心と同一視されるものは個々の魂ではない)。
(*5)context:同じ瞑想が起こる(occurs)場所。
(*6)antaratman: 肉体化された魂の中というアンタル・アートマン(antaratmani)の意味であり、第七格末尾の削除はヴェーダの許可です。
最後に
今回の第一篇第二章五節にて引用されている聖典を以下にてご参考ください。
先生の解説によると、この聖典『シャタバタ・ブラーフマナ』はまったくご存じではないようで、今、現存するのかどうかも不明とのことです。
今回の五節を要約すると
ブラーフマンと個我とは、用語からして違うから異なると言える。
としていて、この節ではシャンカラ師は、個我の意味でのアンタル・アートマンという言葉を用いて(アンタルとは内なるという意味のサンスクリット語)、その個我の中にプルシャがさらに小さいものとして実在していると述べています。
現代では、個我のことをジヴァートマンとしているのですが、当時では、アンタル・アートマンとしていたのかも知れません。
ジヴァートマンとは、やや不純物が入った自我意識とも考えられてはいるのですが、しかし、その不純物が入った自我意識の中にも純粋意識としてのプルシャが入っているとしています。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?