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「マントラの手法は万物をブラーフマンの一つの脚である等と表すことを可能にする」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.26)


はじめに

前回25節の「ガヤトリ・マントラ」の意味を追記致しましたのでご参照ください。

この“note”にて書かれているシャンカラ師の解説をお読みになることで、感性が豊かな方々は、突然(主に安らいでいる状態で)、何らかのインスピレーションによって、その大量の情報の中で受け取れるひらめきがあるかも知れません。(たとえ、そのようなことがない方々でも受け取っているのでご安心ください、継続により後で受け取れる時がきますので)

しかし、『ブラフマ・スートラ』のような聖なる書物に関して言えることで、それぞれの成長段階(実践することに応じて)においての受け取れる理解があって、微妙にその理解が成長とともに変わります。

ですので、「これだ!」みたいな強い印象を受け取られることがあったとしても、後々に、「そうか、あのときはこうだと思ったがこうだったのか」とほとんどの場合、変わりますので、「今の理解ではこれかな」ぐらいに受け止めておかれることをオススメします。

たとえば、「チャクラを霊視できた」とか「ブラフマランドラの光こそがブラーフマンだ」などで、真の理解とやすらぎがそこで留まってそれ以上に進むことを止めてしまいますので!(たとえ止まってもまた進むことができるので問題はないのですが止まる時間がもったいないので)

シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第一章二十六節

26節 そして、そうでなければならない。なぜなら、そうすることによって、すべての事物などを脚として表現することが可能になるからである。

このことは、さらに次の理由からそう認めざるを得ない。ブラーフマンは前のテキストの主題であり、万物などが脚として言及されているからである。このように、大地、肉体、心臓という事物に言及した後、「この記述のガーヤトリーは6つの側面と4つの脚を持つ」(Ch.III.xii.5)と述べられている。 ブラーフマンが考慮されない限り、単なる韻律は、その脚としてすべての事物などを持つことはできないからである。その上、ブラーフマンに言及しなければ、このRkのマントラ、「それだけが彼の栄光である」(Ch.III.xii.6)などは不調和になる。ブラーフマンがこのマントラの主題となるのは、このマントラを文字通りの意味で捉えた場合であるのは、ブラーフマンだけが、このマントラ「これらすべては、彼の脚のひとつにすぎない。不滅である彼の他の3本の脚は天にある」(同上)で述べられている遍在を持つことができるからである。

プルシャ・スークタにおいても、このRkマントラはブラーフマンを提示する方法で発生します。そして、スムリティは、「私は私自身の一部によって、この全宇宙を支えて存在する」(Giza,X.42)でそのようなブラーフマンの形態を提示します。さらに、「そのブラフマン(*149)であるもの」(Ch.III.xii.7)という言葉における(ブラーフマンへの)言及は、この観点が受け入れられる場合にのみ、主要な感覚で可能である。さらに、テキストにあるように、心臓の5つの開口部に関して、「ブラーフマンの従者たち(すなわち門番)」というフレーズ「このように記述されたこれら 5人は、ブラーフマンの従者たちである」(Ch.Ill.xiii.6)の使用は、ブラーフマンとの関係が暗示された(*150)意味である場合にのみ正当化される。したがって、ブラーフマンは以前のテキストの主題であり、結論はこうなる。天との関係によって心に呼び起こされたまさにそのブラーフマンは、光についてのテキストで言及されている。

(*149)Brahman:「それだけが彼の栄光である」の直後に続くこの文は、マントラがブラーフマンについて語っていることを示しています。

(*150)implied:心臓の開口部には、この肉体の都市が属するブラーフマンの門番として、5つの生命力が配置されている。ガーヤトリーと呼ばれるブラーフマンは、このように心臓の中で瞑想されなければならない。

最後に

今回の二十六節にて引用されているウパニシャッドで持っている資料を以上にてご参考ください。

このガーヤトリーは四足で六部分から成る。それについて、『リグ・ヴェーダ』の賛歌に[次のように]述べられている。

(Ch.III.xii.5)岩本裕訳

その偉大さはこのようであり、プルシャはそれよりさらに大である。一切の存在はその足であり、天井における不死はその三つの足である、と。

(Ch.III.xii.6)岩本裕訳

このブラフマンといわれるものは、実に人間の外にある虚空である。実に人間の外にある虚空こそ、

(Ch.III.xii.7)岩本裕訳

ブラフマンのこれら五人の従者は天国の門番である。このようにブラフマンのこれら五人の従者が天国の門番であると知る人があれば、その家には勇士が生まれる。このようにブラフマンのこれら五人の従者が天国の門番であると知る人は、[死後に]天国に到達する。

(Ch.Ill.xiii.6)岩本裕訳

今回の節を簡単に要約すると

前節でのガヤトリ・マントラの手法は、万物を絶対者ブラーフマンの一つである脚であると表現するすることを可能にするので、正しいのだ。

ということになりますが、これも実際に自ら実践して体験するか、もしくは、実践して磨かれた素晴らしい師や先輩方の存在によってうかがい知ることだと思いますし、また実践の支えになり得ます。

ちなみに、「脚」と表現しているのは、たぶん、万物を支えている一本脚という意味合いではないかと、他に万物を支えているものは無いということだと思います。(これは私の解釈です)

おそらく、「天国の門番」たる「五人の従者」についてご興味を抱いたのではないか?と想像できるので

心臓内部にある真我の御座所『魂の科学』より引用

1.かの心臓には、神の出口が五つある。
その東の出口とは、吸気(プラーナ気)であり、眼であり、太陽である。それを人は灼熱する光・栄養物として尊崇せよ。このように知る者は、光輝あり食物ゆたかな者となる。

2.次に、その南の出口とは、体気(ヴィヤーナ気)であり、耳であり、月である。それを人は栄光・名誉として尊崇せよ。このように知る者は、栄光あり名誉ある者となる。

3.次に、その西口とは、呼気(アパーナ気)であり、言語であり、火である。それを人はブラフマンの栄光・栄養物として尊崇せよ。このように知る者は、ブラフマンの栄光を帯び食物ゆたかな者となる。

4.次に、その北口とは、腹気(サマーナ気)であり、意(マナス)であり、雨である。それを人は名声と光彩として尊崇せよ。このように知る者は、名声があり華やかな者となる。

5.次にその上の出口とは、上気(ウダーナ気)であり、風であり、虚空である。それを人は体力・勢力として尊崇せよ。このように知る者は、体力があり勢力のある者となる。

6.ブラフマンのこれら五人の従者は天国の門番である。このようにブラフマンのこれら五人の従者が天国の門番であると知る人があれば、その家には勇士が生まれる。このようにブラフマンのこれら五人の従者が天国の門番であると知る人は、[死後に]天国に到達する。

『チャーンドギヤ・ウパニシャッド』第三章十三節 岩本裕訳

上記の図は、スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ大師が霊視した心臓内部にある真我の御所を図解したものですが(仮にわかりやすく図示したもので)、心臓内の空間上部から極めて明るい白い光が放射されています。

これらの光は、ウパニシャッドにて五方向(Panchamukhi)と呼ばれているような光であり、この光を通じて上記の『チャーンドギヤ・ウパニシャッド』に述べられている生気(プラーナ)が流出されているといわれています。

これらのことは、読んだだけでは本当のことかどうかはわかりませんので、素晴らしい先生にご指導を仰ぎ実践して霊視しなければわかりませんが、ご参考まで記しておきます。

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