「個我の性質はブラーフマンとは異なるのだが...」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.2.3)
はじめに
これから何節かにかけて、ブラーフマンと個々の魂である個我(ジヴァートマン)との違いをシャンカラ師は解説していきます。
ですので、今節はその解説の途中となっているので題名が「個我の性質はブラーフマンとは異なるのだが...」となっています。
シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第二章三節
3節 そして、肉体化された個々の魂(個我)は、その性質がそれ(ブラーフマン)に適合しないため、確かに意味しない。
前の格言は、ブラーフマンにおける意図された特質の適性について述べた。この格言は、肉体化された魂には適用できないことを述べている。toという語は強調を意味する。説明された理由によれば、心と同一視されるなどの性質を持つのはブラーフマンだけである。個々の魂(個我)はそのような性質を持つことはできない。その理由は、「真の決意を持ち、肉体のような空間を持ち」(Ch.III.xiv.2)、「言葉を持たず、執着を持たない」(同上)、「地球よりも偉大である」(Ch.III.xix.3)など、そのような性質は個々の存在にはふさわしくないからである。sarimという言葉は、肉体の中に存在するという意味である。
反論相手:神は肉体の中にも存在するのではないか?
ヴェーダンティン:確かに、神は肉体の中に存在しますが、肉体だけの中に存在するのではありません。ウパニシャッドは、「地球よりも、空間よりも偉大である」(同上)、「彼は空間のように遍在し、永遠である」と、神の遍在性を宣言しています。しかし、個々の存在は肉体の中だけに存在するのであり、その経験の場である肉体以外のどこにも存在しないからである。
最後に
今回の第一篇第二章二節にて引用されているウパニシャッドを以下にてご参考ください。
今回の三節を要約すると
前の格言の他に、個我(ジヴァートマン)の性質がウパニシャッドの中で意味されているのではなく、ウパニシャッドにおいてブラーフマンについて意味されている性質は、個我の性質には合わないのだ。
ということになりますが、まだ、説明しきってはおりません。
また、下記にあるような
ここだけを切り取って理解されると、他の箇所ではこの肉体をエージェント(経験の代理人)として表現している箇所もあるので、遍在するとすることとの矛盾があり誤解を招くような表現と言えます。
まだまだ、シャンカラ師の教説は続きますので、全体を読み通してまた部分に関して熟考しまた全体をも熟考するの繰り返しにて、理解を深められることをオススメ申し上げます。
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